2012年04月29日
ウチナ~嫁の歳時記より
別荘やリゾートマンション情報を扱う、株式会社レゾン
(東京本社)が出版する、季刊誌「リゾート物件情報」
誌に、「うちな~嫁の歳時記」というエッセイを、連載し
ています。
今回、何を書こうかと迷っていたところ、友人からたくさん、
キャンベルのスープ缶詰を、いただいたことからヒントを得て、
前から気になっていた、「沖縄の缶詰事情」について、
書くことにしました。
沖縄には、戦後アメリカから、ポークランチョンミート(ポーク
缶詰)が、配給物資として支給されました。
それが、もともと「豚の食文化」であった沖縄に、見事に
根付き、ポーク缶は、ウチナーンチュに愛され続けて
います。
また、沖縄では、シーチキンやサバ缶も、チャンプル~
などの料理に、よく使われ、缶詰の消費量が多い・・
というような、ことを書きました。
記事には、写真も載せます。
ポーク缶などの、
缶詰が陳列されている
様子は、沖縄市住吉の
仲松商事に協力を求め
ました。
仲松商事は、良い品が
安く買えるので、お勧
めです。
ポーク缶や、シーチキンを使った、料理の写真も、
載せることにしました。
私は料理が苦手なので、料理上手の友人に、協力して
もらうことに、しました。

友人は、野菜とポーク缶を使ったチャンプ
ルー、シーチキンのソーメンチャンプルー、
ポークたまご、麩の卵焼き、タコライス
など、得意の腕を、振るってくれました。
今まで、ソーメンチャンプルーがうまく作れないのが、
悩みの種でしたが、作り方のコツは、麺の水分にあると、
教えてもらいました。
固ゆでしたソーメンの、水分の水をよく気って、油をひいた
フライパンに、ジャッと入れてかき混ぜれば、いいのでした。
あとは、シーチキンや葱などと、混ぜて、塩で味を、調える
だけで、できあがります。
作っては食べて、ゆんたく(おしゃべり)して、気のおけない
女友達と、こんなふうに過すのも、たまにはいいものです。
*「リゾート物件情報」夏号は、6月初旬、発売予定です。
全国の主な書店で、扱っていると思いますが、詳しくは、
株式会社レゾンのホームページをご覧ください。
http://reson-ltd.co.jp
残念ながら、この雑誌は、沖縄では、扱っていません。
(東京本社)が出版する、季刊誌「リゾート物件情報」
誌に、「うちな~嫁の歳時記」というエッセイを、連載し
ています。
今回、何を書こうかと迷っていたところ、友人からたくさん、
キャンベルのスープ缶詰を、いただいたことからヒントを得て、
前から気になっていた、「沖縄の缶詰事情」について、
書くことにしました。
沖縄には、戦後アメリカから、ポークランチョンミート(ポーク
缶詰)が、配給物資として支給されました。
それが、もともと「豚の食文化」であった沖縄に、見事に
根付き、ポーク缶は、ウチナーンチュに愛され続けて
います。
また、沖縄では、シーチキンやサバ缶も、チャンプル~
などの料理に、よく使われ、缶詰の消費量が多い・・
というような、ことを書きました。
記事には、写真も載せます。
缶詰が陳列されている
様子は、沖縄市住吉の
仲松商事に協力を求め
ました。
仲松商事は、良い品が
安く買えるので、お勧
めです。
ポーク缶や、シーチキンを使った、料理の写真も、
載せることにしました。
私は料理が苦手なので、料理上手の友人に、協力して
もらうことに、しました。
友人は、野菜とポーク缶を使ったチャンプ
ルー、シーチキンのソーメンチャンプルー、
ポークたまご、麩の卵焼き、タコライス
など、得意の腕を、振るってくれました。
今まで、ソーメンチャンプルーがうまく作れないのが、
悩みの種でしたが、作り方のコツは、麺の水分にあると、
教えてもらいました。
固ゆでしたソーメンの、水分の水をよく気って、油をひいた
フライパンに、ジャッと入れてかき混ぜれば、いいのでした。
あとは、シーチキンや葱などと、混ぜて、塩で味を、調える
だけで、できあがります。
作っては食べて、ゆんたく(おしゃべり)して、気のおけない
女友達と、こんなふうに過すのも、たまにはいいものです。
*「リゾート物件情報」夏号は、6月初旬、発売予定です。
全国の主な書店で、扱っていると思いますが、詳しくは、
株式会社レゾンのホームページをご覧ください。
http://reson-ltd.co.jp
残念ながら、この雑誌は、沖縄では、扱っていません。
2012年04月23日
清明祭
旧暦の三月、清明節(新暦の4月5日頃)に入ると、
沖縄本島各地では、門中や、親戚一同が墓前に集まり、
賑やかに、清明祭が行われます。
清明祭は、18世紀中ごろに、中国から伝来したものです。
もともとは、二十四節気の一つである、清明節に始まり、
農事がうまくいくよう、祖先に祈るための祭儀だったものが、
沖縄では、祖先供養になりました。
元来、首里士族の間で、行われていた儀式でしたが、
それが次第に、地方に広がっていきました。
清明祭は、沖縄本島中南部では盛んですが、国頭(北部)や、
宮古、八重山地方では、清明よりも、旧暦1月の、ジュウル
クニチー(あの世の正月)のほうが、盛大に行われます。
この時期、仏壇のある家では、清明が終わるまで、
なんとなく、落ち着かないものです。
年に一度、親戚一同が集まり、お墓参りするという、大事
な行事です。
親戚間でのスケジュール調整から、お供え物などの手配
など、気が抜けません。
この時期、県内のスーパーでは、清明用の料理、餅や
果物セット、お菓子類などが、たくさん売られています。
我が家の清明も、先週日曜(4月15日)に、無事終わ
りました。
雨降りの日が多い、この4月ですが、この日も、朝から、
かなり雨が降っていました。
天気が悪いから中止にしようにも、重箱料理や餅など、
すでに注文してしまっているので、変更は難しく、予定
通り、お墓へ向かいます。
我が家のお墓は、名護の為又(びいまた)にあります。
幸い、名護に着くころは、雨も小止みになっていました。
私たちは、兄弟たちより、早めに行って、墓掃除です。
これも、門中墓のような大きな墓だと、墓の周りの草刈
やら何から、大変だそうですが、我が家のような、小さな
墓の場合は、掃除も簡単です。
小さな墓と言っても、墓の前には、親戚一同が座って、拝ん
だり、歓談できる、前庭のような、スペースがあり、その気
になれば、20人くらいは、入れるほどの、スペースはあり
ます。
ちなみに沖縄の墓は、女性の子宮を、かたどっています。
これは、生命は子宮の中で育ち、そこから生まれ出てくる
のに対し、亡くなる時も、元の場所に帰っていく、という
人生観が、込められているのです。
話を掃除に戻します。夫が近くの空き地から、ススキの葉を
切ってきたものを、束ねてきました。
これに水を付け、黒ずんで汚れた花活けや、茶碗を擦ると、汚れが落ちやすくなりました。
初めてこのやり方を見た時、生活の知恵だな~と、感心したものです。
そのうちに、兄弟たちが集まりました。
日ごろは忙しくて、なかなか会えない、親戚の顔が揃う
のも、清明の時ならではです。
それぞれが持ち寄った、重箱料理、餅、菓子、
果物、手作りの惣菜が、にぎやかに、墓前に並びます。
いよいよ、空の雲行きが怪しくなり、お参りを、早く
済ませてしまおう、ということになりました。
皆の家族分の、線香をあげるので、狭い香炉は、すぐに
いっぱいになって、しまいました。
ウチカビを燃やします。これは、あの世のお金。先祖が、あの世で困らないよう、持っていって、いただくのです。
本来なら、このあと、持ち寄ったごちそうを、
墓前でいただくのですが、すでに雨が降り
出してきました。
早々に切り上げ、ごちそうは名護市宮里にある、義母の
家で、みんなでいただき、無事今年の清明祭は、終わり
ました。
家に帰ってから、ヒヌカンと仏壇に、無事清明が終わった
ことを、線香を立てて、報告しました。
この後、お楽しみが待っています。残り物の重箱料理を、
いただくのです。
重箱料理の中身は、魚のてんぷら、こんにゃく、ごぼう、
三枚肉、昆布、揚げ豆腐の煮たものと、カステラかまぼこ
ですが、これを油でいため、さっと醤油をまわしかけて、
いただきます。
これがなんとも言えず、おいしく、ご飯のおかずにもいいし、ビールの
つまみにも、最適なのです。
仏壇行事は、気苦労も多いですが、一方で、
こういう楽しみもあります。(^。^)
沖縄本島各地では、門中や、親戚一同が墓前に集まり、
賑やかに、清明祭が行われます。
清明祭は、18世紀中ごろに、中国から伝来したものです。
もともとは、二十四節気の一つである、清明節に始まり、
農事がうまくいくよう、祖先に祈るための祭儀だったものが、
沖縄では、祖先供養になりました。
元来、首里士族の間で、行われていた儀式でしたが、
それが次第に、地方に広がっていきました。
清明祭は、沖縄本島中南部では盛んですが、国頭(北部)や、
宮古、八重山地方では、清明よりも、旧暦1月の、ジュウル
クニチー(あの世の正月)のほうが、盛大に行われます。
この時期、仏壇のある家では、清明が終わるまで、
なんとなく、落ち着かないものです。
年に一度、親戚一同が集まり、お墓参りするという、大事
な行事です。
親戚間でのスケジュール調整から、お供え物などの手配
など、気が抜けません。
この時期、県内のスーパーでは、清明用の料理、餅や
果物セット、お菓子類などが、たくさん売られています。
我が家の清明も、先週日曜(4月15日)に、無事終わ
りました。
雨降りの日が多い、この4月ですが、この日も、朝から、
かなり雨が降っていました。
天気が悪いから中止にしようにも、重箱料理や餅など、
すでに注文してしまっているので、変更は難しく、予定
通り、お墓へ向かいます。
我が家のお墓は、名護の為又(びいまた)にあります。
幸い、名護に着くころは、雨も小止みになっていました。
私たちは、兄弟たちより、早めに行って、墓掃除です。
これも、門中墓のような大きな墓だと、墓の周りの草刈
やら何から、大変だそうですが、我が家のような、小さな
墓の場合は、掃除も簡単です。
小さな墓と言っても、墓の前には、親戚一同が座って、拝ん
だり、歓談できる、前庭のような、スペースがあり、その気
になれば、20人くらいは、入れるほどの、スペースはあり
ます。
ちなみに沖縄の墓は、女性の子宮を、かたどっています。
これは、生命は子宮の中で育ち、そこから生まれ出てくる
のに対し、亡くなる時も、元の場所に帰っていく、という
人生観が、込められているのです。
話を掃除に戻します。夫が近くの空き地から、ススキの葉を
切ってきたものを、束ねてきました。
これに水を付け、黒ずんで汚れた花活けや、茶碗を擦ると、汚れが落ちやすくなりました。
初めてこのやり方を見た時、生活の知恵だな~と、感心したものです。
そのうちに、兄弟たちが集まりました。
日ごろは忙しくて、なかなか会えない、親戚の顔が揃う
のも、清明の時ならではです。
果物、手作りの惣菜が、にぎやかに、墓前に並びます。
いよいよ、空の雲行きが怪しくなり、お参りを、早く
済ませてしまおう、ということになりました。
皆の家族分の、線香をあげるので、狭い香炉は、すぐに
いっぱいになって、しまいました。
本来なら、このあと、持ち寄ったごちそうを、
墓前でいただくのですが、すでに雨が降り
出してきました。
早々に切り上げ、ごちそうは名護市宮里にある、義母の
家で、みんなでいただき、無事今年の清明祭は、終わり
ました。
家に帰ってから、ヒヌカンと仏壇に、無事清明が終わった
ことを、線香を立てて、報告しました。
この後、お楽しみが待っています。残り物の重箱料理を、
いただくのです。
重箱料理の中身は、魚のてんぷら、こんにゃく、ごぼう、
三枚肉、昆布、揚げ豆腐の煮たものと、カステラかまぼこ
ですが、これを油でいため、さっと醤油をまわしかけて、
いただきます。
これがなんとも言えず、おいしく、ご飯のおかずにもいいし、ビールの
つまみにも、最適なのです。
仏壇行事は、気苦労も多いですが、一方で、
こういう楽しみもあります。(^。^)
2012年04月22日
ユンヂチ
年中行事などを行うのに、太陰太陽暦(旧暦)が、用いられる沖縄ですが、今年の旧暦のカレンダーには、なんと旧3月が、2回繰り返されます。
昨日(4月20日)で、旧3月30日が終わりましたが、今日(4月21日)
から、旧閏3月1日が始まりました。
旧閏3月は、新暦5月20日まで、30日間続きます。そして翌日(新暦
5月21日)から、旧4月1日が始まるのです。
これを、ユンヂチといいます。旧暦で生ずる、閏月のことです。
月の満ち欠けを、基準に作られた暦である、太陰暦では、1年が
約354日と、太陽暦より、約11日短いので、月と季節がずれるのを
防ぐために、約19年間に7回、ユンヂチ(閏月)を設け、調整している
のです。
おもしろいのは、ユンヂチを、「余分な月」と考える、習慣があることです。
ユンヂチは、「余分な月」ゆえに、神様からも見逃されると考え、
決まりごとが多く面倒な、仏壇や位牌の取替えには最適、だという
のです。
また、太陰暦で生ずる、年間11日のずれを、調整するための、
ユンヂチにちなみ、「筋を正す」、すなわち、「自分の家系を正す」、
絶好の機会、だという考えもあります。
(沖縄・暮らしの大百科・那覇出版社)
ユンヂチのこの年は、個人レベルでも、「自分を見直す、リセットする」
いい機会だと、言えるのではないでしょうか。
昨日(4月20日)で、旧3月30日が終わりましたが、今日(4月21日)
から、旧閏3月1日が始まりました。
旧閏3月は、新暦5月20日まで、30日間続きます。そして翌日(新暦
5月21日)から、旧4月1日が始まるのです。
これを、ユンヂチといいます。旧暦で生ずる、閏月のことです。
月の満ち欠けを、基準に作られた暦である、太陰暦では、1年が
約354日と、太陽暦より、約11日短いので、月と季節がずれるのを
防ぐために、約19年間に7回、ユンヂチ(閏月)を設け、調整している
のです。
おもしろいのは、ユンヂチを、「余分な月」と考える、習慣があることです。
ユンヂチは、「余分な月」ゆえに、神様からも見逃されると考え、
決まりごとが多く面倒な、仏壇や位牌の取替えには最適、だという
のです。
また、太陰暦で生ずる、年間11日のずれを、調整するための、
ユンヂチにちなみ、「筋を正す」、すなわち、「自分の家系を正す」、
絶好の機会、だという考えもあります。
(沖縄・暮らしの大百科・那覇出版社)
ユンヂチのこの年は、個人レベルでも、「自分を見直す、リセットする」
いい機会だと、言えるのではないでしょうか。
2012年04月11日
タブーを恐れず信念を貫いた人
馮姓諸見里門中の、系図作成は、完成間近ですが、
先週4月6日(金)、諸見里安栄(あんえい)さんが、最後の
仕上げ前に、島尻諸見里の人たちに声をかけ、主な皆さんが、
集まってくださいました。
集まったのは、大家諸見里(うふや~もろみざと)の安助さん、
和子さんご夫婦、文子さん、前諸見里(めーもろみざと)の安憲さん、
安一さん兄弟、新諸見里(みーもろみざと)の哲雄さん、安雄さん
兄弟、そして西諸見里(いりもろみざと)の安信さん、安明さん
兄弟、安栄さんの弟・安次さん、そして安栄さんの長男・元さん、
三男・治さんです。

場所は、一族の本拠地
である、糸満市武富
(たけとみ)にある、
安栄さんの弟・安次
さんが、野村流伝統
音楽を教えている、
教室で行われました。
美味しい牛汁を、皆でいただいた後、安栄さんが、みなさんに、
系図調査の苦労話や、家系図に書かれる、エピソードの内容を、
説明しました。
系図調査のため、大家
諸見里、前諸見里、
西諸見里(いりもろみ
ざと)はもちろんのこと、
島尻諸見里に関連の
ある、北谷(ちゃたん)・
桑江前諸見里(くぇー
めーもろみざと)宅や、
首里大名(しゅりうふ
なー)の諸見里安邦
さん宅を訪ねました。
訪ねた先では、仏壇の位牌に書かれている、名を調べる
ため、仏壇に手を触れます。
沖縄の位牌は、先祖の名前が書かれている木の札を、
はめ込む様になっています。一つの位牌に、数人納め
られているのが、普通です。本土の位牌とは、だいぶ
違います。
普通、位牌には触るのはタブーですが、安栄さんは
恐れることなく、堂々と手を触れ、はめ込まれた木の
札を外しては、裏側を確かめていました。
裏側にも名前や、没年が書かれていることが、ある
からです。
安栄さんがタブーをあえて冒すのは、先祖のことを
きちんと知って、門中のために残していきたいという、
考えがあるからです。
しかし、あまりに熱心になり過ぎたせいか、安栄さんは、
先祖が夢に出てきて、うなされるようになったり、また、
怪我や急病で病院に運ばれたりということが、重なる
ようになったそうです。
それを、他人の家の仏壇を、むやみに触ったりしたから
だ、という人もいますが、安栄さん自身は、門中の皆の
ためにやったのだからと、悪いことをしたわけではない
と、おっしゃっています。
門中の皆のために、そして子孫のために、という信念
を持ち、タブーを恐れず取り組めるのは、真に勇気の
ある人です。
安栄さんのような人がいて、諸見里門中は、幸せだ
と思います。
諸見里門中の、系図の仕上がりが、楽しみです。
先週4月6日(金)、諸見里安栄(あんえい)さんが、最後の
仕上げ前に、島尻諸見里の人たちに声をかけ、主な皆さんが、
集まってくださいました。
集まったのは、大家諸見里(うふや~もろみざと)の安助さん、
和子さんご夫婦、文子さん、前諸見里(めーもろみざと)の安憲さん、
安一さん兄弟、新諸見里(みーもろみざと)の哲雄さん、安雄さん
兄弟、そして西諸見里(いりもろみざと)の安信さん、安明さん
兄弟、安栄さんの弟・安次さん、そして安栄さんの長男・元さん、
三男・治さんです。
場所は、一族の本拠地
である、糸満市武富
(たけとみ)にある、
安栄さんの弟・安次
さんが、野村流伝統
音楽を教えている、
教室で行われました。
美味しい牛汁を、皆でいただいた後、安栄さんが、みなさんに、
系図調査の苦労話や、家系図に書かれる、エピソードの内容を、
説明しました。
諸見里、前諸見里、
西諸見里(いりもろみ
ざと)はもちろんのこと、
島尻諸見里に関連の
ある、北谷(ちゃたん)・
桑江前諸見里(くぇー
めーもろみざと)宅や、
首里大名(しゅりうふ
なー)の諸見里安邦
さん宅を訪ねました。
訪ねた先では、仏壇の位牌に書かれている、名を調べる
ため、仏壇に手を触れます。
沖縄の位牌は、先祖の名前が書かれている木の札を、
はめ込む様になっています。一つの位牌に、数人納め
られているのが、普通です。本土の位牌とは、だいぶ
違います。
普通、位牌には触るのはタブーですが、安栄さんは
恐れることなく、堂々と手を触れ、はめ込まれた木の
札を外しては、裏側を確かめていました。
裏側にも名前や、没年が書かれていることが、ある
からです。
安栄さんがタブーをあえて冒すのは、先祖のことを
きちんと知って、門中のために残していきたいという、
考えがあるからです。
しかし、あまりに熱心になり過ぎたせいか、安栄さんは、
先祖が夢に出てきて、うなされるようになったり、また、
怪我や急病で病院に運ばれたりということが、重なる
ようになったそうです。
それを、他人の家の仏壇を、むやみに触ったりしたから
だ、という人もいますが、安栄さん自身は、門中の皆の
ためにやったのだからと、悪いことをしたわけではない
と、おっしゃっています。
門中の皆のために、そして子孫のために、という信念
を持ち、タブーを恐れず取り組めるのは、真に勇気の
ある人です。
安栄さんのような人がいて、諸見里門中は、幸せだ
と思います。
諸見里門中の、系図の仕上がりが、楽しみです。
2012年04月03日
戦後67年、沖縄の実情
沖縄市の広報誌「おきなわ 20120年4月号」を何気なく
開くと、中に挿まれていた、地元宮里の「自治会便り みやざと」
が、目に止まりました。
飛び込んできたのは、「3月11日 不発弾 無事に処理されました」
という記事です。
それで思い出しましたが、先月3月11日、わが宮里3丁目で、
自衛隊による、不発弾処理が、ありました。
その数日前から、宮里区域の、県道など、主要な道路の各所に、
「3月11日 不発弾処理」のお知らせを、目にしたものです。
当日は、コザ十字路から、照屋交差点までの区間は、
処理の数時間の間、交通止めに、なっていました。
2009年5月24日付け琉球新報によると、沖縄では
今でも、沖縄戦当時に使われた、爆弾2300トンが、
地中に埋もれていると、推計されているそうです。
これらの不発弾は、少しの衝撃で、爆発する危険が
あるので、「地雷」並みの危険性があると、言われて
います。
いままで、不発弾処理といえば、激戦地だった、那覇
から糸満にかけてだと、思っていました。
それが中部で、しかも家の近所で、このような騒ぎが
あったのです。
しかしこれは、たんに私が無知なだけで、やはり中部
でも、激しい戦闘があったのですね。
不発弾処理が行われる場所から、半径168メートル内
の住民は、処理の行われる当日、避難しなければなり
ませでした。
幸い、我が家はその範囲外だったので、避難せずに、
すみました。
偶然、港川門中の港川松政(しょうせい)さんが、半径
168メートル内に住んでいて、後で聞いてみたら、
「処理の間2~3時間、買い物に行っていたよ」と言っ
ていました。
当日、自衛隊に処理されたのは、50キロ爆弾だった
そうです。
無事処理されたからよかったですが、工事中、何かの
弾みで、爆弾を刺激して、爆発する可能性だってある
のですから、怖い話です。
その一週間前、3月3日付けの琉球新報で、首里真和志町(しゅりまわしちょう)の、県立首里高校のグラウンドで、発見された爆弾の、撤去
処理が行われる、記事があったことを、思い出しました。
処理の間、立ち入り区域では、住民383世帯、1088
人が、避難の対象となりました。
また、付近は、交通規制もあり、バスは迂回しなければ、
なりません。
戦後67年経ちますが、沖縄では、安全な日常生活を、
遮断されるような不都合が、いまも繰り返されている
のが、実情なのです。
開くと、中に挿まれていた、地元宮里の「自治会便り みやざと」
が、目に止まりました。
飛び込んできたのは、「3月11日 不発弾 無事に処理されました」
という記事です。
それで思い出しましたが、先月3月11日、わが宮里3丁目で、
自衛隊による、不発弾処理が、ありました。
その数日前から、宮里区域の、県道など、主要な道路の各所に、
「3月11日 不発弾処理」のお知らせを、目にしたものです。
当日は、コザ十字路から、照屋交差点までの区間は、
処理の数時間の間、交通止めに、なっていました。
2009年5月24日付け琉球新報によると、沖縄では
今でも、沖縄戦当時に使われた、爆弾2300トンが、
地中に埋もれていると、推計されているそうです。
これらの不発弾は、少しの衝撃で、爆発する危険が
あるので、「地雷」並みの危険性があると、言われて
います。
いままで、不発弾処理といえば、激戦地だった、那覇
から糸満にかけてだと、思っていました。
それが中部で、しかも家の近所で、このような騒ぎが
あったのです。
しかしこれは、たんに私が無知なだけで、やはり中部
でも、激しい戦闘があったのですね。
不発弾処理が行われる場所から、半径168メートル内
の住民は、処理の行われる当日、避難しなければなり
ませでした。
幸い、我が家はその範囲外だったので、避難せずに、
すみました。
偶然、港川門中の港川松政(しょうせい)さんが、半径
168メートル内に住んでいて、後で聞いてみたら、
「処理の間2~3時間、買い物に行っていたよ」と言っ
ていました。
当日、自衛隊に処理されたのは、50キロ爆弾だった
そうです。
無事処理されたからよかったですが、工事中、何かの
弾みで、爆弾を刺激して、爆発する可能性だってある
のですから、怖い話です。
処理が行われる、記事があったことを、思い出しました。
処理の間、立ち入り区域では、住民383世帯、1088
人が、避難の対象となりました。
また、付近は、交通規制もあり、バスは迂回しなければ、
なりません。
戦後67年経ちますが、沖縄では、安全な日常生活を、
遮断されるような不都合が、いまも繰り返されている
のが、実情なのです。
2012年04月01日
いよいよ大詰め、諸見里門中の調査
去年の9月から始まった、馮氏諸見里門中の調査も、
半年が過ぎました。
初めは、全く何もないところから、調査が始まり、親族の
戸籍を取り寄せ、わかるところから、系図をつないでいき
ました。
諸見里家は、「安」という名乗頭から、馮氏の士族ということ
がわかったので、那覇市歴史博物館に保存してある、
「馮姓諸見里支流」の家譜から、諸見里安春(あんしゅん)
を元祖とし、その支流は、三世・安道(あんどう)から始まる
家系、ということが、わかりました。
また、支流六世・安長(あんちょう)6人の男子のうち、三男
腹が具志川諸見里、五男腹が北谷諸見里、そして六男腹
が与那原諸見里の各元祖となり、それぞれが、そこから
繁栄していることも、わかりました。
系図の依頼人、諸見里安栄(あんえい)さんの家系は、
安長の五男腹、北谷諸見里から、先祖が島尻(糸満)に
門中の系図は、ほぼ仕上がりました。
すでに挨拶文、エピソードなどの原稿もおおかたそろい、
あとは不足している系図など、細部を補えば、完成です。
ただ島尻に、北谷から、いつ、誰が、行ったのか、それが
いまだに、わからないままになっています。
もし北谷諸見里の、「家譜214番」があれば、そのあたりも、
明らかになるのですが、今のところ、その所在は不明です。
家譜は、戦争で消失してしまったのか、はたまた、どこかに
埋もれているのか・・それはわかりません。
どうしてもわからない場合、人によっては、ユタに拝んで
調べてもらうこともありますが、安栄さんは、そこまで望ん
でいません。
わからないものは、わからないものとして、受け止めようと、
思っていらっしゃるのです。
その日の調査が終わった後、安栄さんが、南風原町宮平
にある、味処「なーでぇら」で、沖縄おでんを、ご馳走して
くれました。。
くつくつ煮込まれた、
てびちに、ダイコン、
卵、こんにゃく、昆布、
レタスが、大盛りに
なって、これで一人前、
けっこうな量です。
でも、あまりの美味しさに、ペロッと、たいらげてしま
いました(*^。^*)
安栄さんとは、この数ヶ月、調査を共にしてきました。
次第に、おおらかで、スケールの大きな、安栄さんの
人柄に、魅了されてきました。
「人に対して、自分のできることを精一杯尽くすのが大切」
「頭を使って、一生懸命働くのが成功の秘訣」
いずれも、安栄さんから聞いたことです。
南風原町大名の、公民館建設の土地がなくて、困ってい
る時、安栄さんが、自分の土地を、無償で提供してくれた、
そうです。
こういうことは、なかなかできることでは、ないと思います。
「寛容」という、美徳を持つ、諸見里安栄さんに、お会いする
たび、何か大切なことを、教えられているような、気持ちが
していました。
諸見里家の系図が、仕上がるのは嬉しいことですが、安栄
さんのお仕事が、終わるのは、少し寂しい気がしています。
お酒 味処 なーでぇら 南風原町字宮平510-1
℡098-889-6845
半年が過ぎました。
初めは、全く何もないところから、調査が始まり、親族の
戸籍を取り寄せ、わかるところから、系図をつないでいき
ました。
諸見里家は、「安」という名乗頭から、馮氏の士族ということ
がわかったので、那覇市歴史博物館に保存してある、
「馮姓諸見里支流」の家譜から、諸見里安春(あんしゅん)
を元祖とし、その支流は、三世・安道(あんどう)から始まる
家系、ということが、わかりました。
また、支流六世・安長(あんちょう)6人の男子のうち、三男
腹が具志川諸見里、五男腹が北谷諸見里、そして六男腹
が与那原諸見里の各元祖となり、それぞれが、そこから
繁栄していることも、わかりました。
系図の依頼人、諸見里安栄(あんえい)さんの家系は、
安長の五男腹、北谷諸見里から、先祖が島尻(糸満)に
門中の系図は、ほぼ仕上がりました。
すでに挨拶文、エピソードなどの原稿もおおかたそろい、
あとは不足している系図など、細部を補えば、完成です。
ただ島尻に、北谷から、いつ、誰が、行ったのか、それが
いまだに、わからないままになっています。
もし北谷諸見里の、「家譜214番」があれば、そのあたりも、
明らかになるのですが、今のところ、その所在は不明です。
家譜は、戦争で消失してしまったのか、はたまた、どこかに
埋もれているのか・・それはわかりません。
どうしてもわからない場合、人によっては、ユタに拝んで
調べてもらうこともありますが、安栄さんは、そこまで望ん
でいません。
わからないものは、わからないものとして、受け止めようと、
思っていらっしゃるのです。
その日の調査が終わった後、安栄さんが、南風原町宮平
にある、味処「なーでぇら」で、沖縄おでんを、ご馳走して
くれました。。
くつくつ煮込まれた、
てびちに、ダイコン、
卵、こんにゃく、昆布、
レタスが、大盛りに
なって、これで一人前、
けっこうな量です。
でも、あまりの美味しさに、ペロッと、たいらげてしま
いました(*^。^*)
安栄さんとは、この数ヶ月、調査を共にしてきました。
次第に、おおらかで、スケールの大きな、安栄さんの
人柄に、魅了されてきました。
「人に対して、自分のできることを精一杯尽くすのが大切」
「頭を使って、一生懸命働くのが成功の秘訣」
いずれも、安栄さんから聞いたことです。
南風原町大名の、公民館建設の土地がなくて、困ってい
る時、安栄さんが、自分の土地を、無償で提供してくれた、
そうです。
こういうことは、なかなかできることでは、ないと思います。
「寛容」という、美徳を持つ、諸見里安栄さんに、お会いする
たび、何か大切なことを、教えられているような、気持ちが
していました。
諸見里家の系図が、仕上がるのは嬉しいことですが、安栄
さんのお仕事が、終わるのは、少し寂しい気がしています。
お酒 味処 なーでぇら 南風原町字宮平510-1
℡098-889-6845
2012年03月24日
お彼岸
暑さ寒さも彼岸まで と言いますが、お彼岸も過ぎた、
昨日の沖縄は、すでに初夏の陽気でした。
しかし夕方になると、風が強くなり、その風が、黒い雲を
どんどん運んできて、ついには雨が降ってきました。
それは、ちょっとした嵐のようでした。
自然のエネルギーが、嵐に乗って拡散され、木々や
花たちは、それを蓄えて、成長するのではないでしょうか。
春の嵐は、なにやら、幸運を運んで来てくれるような、
気がします。
旧暦二月の、春分の日、いわゆるお彼岸ですが、祖先
供養をするのは、沖縄も同じです。
しかし沖縄の場合、墓参りはしないで、家庭で、重箱な
どの彼岸料理を、仏壇にお供えするのが、普通です。
我が家の場合、名護の義母が、「簡単にすましていいよ~」
と言うので、重箱は供えず、魚汁とてんぷらを、お供えしました。
真鯛の魚汁は、夫が作りました。彼は料理がうまく、
とっても美味しい、魚汁を作ってくれました。
沖縄の仏壇には、ふだんは花でなく、チャーギ、
クロトン、などの葉物を活けます。
花を活けるのは、正月や旧盆、清明などの、特別の行事
がある時、だけです。
お彼岸用の花を、沖縄市登川にある、ファーマーズマー
ケットちゃんぷる~市場に、買いに行って来ました。
さすが、お彼岸用に、菊の花がたくさん、置いてありました。
中でも、黄色い中ぶりの菊が、新鮮できれいだったので、
それに合わせて、白とピンクのスプレー菊を買って、
仏壇に活けました。
沖縄では、菊の栽培が盛んで、多くは、本土に
出荷されています。
春の彼岸や、正月、
本土に出回る、小菊
のほとんどは、沖縄
産です。
その時期に合わせて、出荷できるよう、電照菊を、栽培
しています。
日照時間が短くなると、菊は、花芽を形成し、やがて蕾と
なって、開花するという特質を利用し、花芽が形成される
前に、人工的に光をあて、花芽の形成と、開花時期を、
遅らせる方法です。
この電照菊栽培の光が、夜になると、いっせいに輝いて、
それは、きれいです。
沖縄市の池原付近を、夜間ドライブしている時、電照菊
栽培の光の渦に、目を奪われたことが、あります。
以前、東京から、夜間のフライトで、沖縄に来た時の、
ことです。
飛行機が、沖縄本島南部の、海岸線上空を、飛んでいた
時、陸地の一部が、光り輝いて、なんだろうと、思ったこ
とが、ありました。
電照菊の畑だったんですね。
真っ暗な闇の中、ひときわ輝いていた、電照菊畑の光景は、
今も忘れません。
昨日の沖縄は、すでに初夏の陽気でした。
しかし夕方になると、風が強くなり、その風が、黒い雲を
どんどん運んできて、ついには雨が降ってきました。
それは、ちょっとした嵐のようでした。
自然のエネルギーが、嵐に乗って拡散され、木々や
花たちは、それを蓄えて、成長するのではないでしょうか。
春の嵐は、なにやら、幸運を運んで来てくれるような、
気がします。
旧暦二月の、春分の日、いわゆるお彼岸ですが、祖先
供養をするのは、沖縄も同じです。
しかし沖縄の場合、墓参りはしないで、家庭で、重箱な
どの彼岸料理を、仏壇にお供えするのが、普通です。
我が家の場合、名護の義母が、「簡単にすましていいよ~」
と言うので、重箱は供えず、魚汁とてんぷらを、お供えしました。
真鯛の魚汁は、夫が作りました。彼は料理がうまく、
とっても美味しい、魚汁を作ってくれました。
沖縄の仏壇には、ふだんは花でなく、チャーギ、
クロトン、などの葉物を活けます。
花を活けるのは、正月や旧盆、清明などの、特別の行事
がある時、だけです。
お彼岸用の花を、沖縄市登川にある、ファーマーズマー
ケットちゃんぷる~市場に、買いに行って来ました。
さすが、お彼岸用に、菊の花がたくさん、置いてありました。
中でも、黄色い中ぶりの菊が、新鮮できれいだったので、
それに合わせて、白とピンクのスプレー菊を買って、
仏壇に活けました。
沖縄では、菊の栽培が盛んで、多くは、本土に
出荷されています。
春の彼岸や、正月、
本土に出回る、小菊
のほとんどは、沖縄
産です。
その時期に合わせて、出荷できるよう、電照菊を、栽培
しています。
日照時間が短くなると、菊は、花芽を形成し、やがて蕾と
なって、開花するという特質を利用し、花芽が形成される
前に、人工的に光をあて、花芽の形成と、開花時期を、
遅らせる方法です。
この電照菊栽培の光が、夜になると、いっせいに輝いて、
それは、きれいです。
沖縄市の池原付近を、夜間ドライブしている時、電照菊
栽培の光の渦に、目を奪われたことが、あります。
以前、東京から、夜間のフライトで、沖縄に来た時の、
ことです。
飛行機が、沖縄本島南部の、海岸線上空を、飛んでいた
時、陸地の一部が、光り輝いて、なんだろうと、思ったこ
とが、ありました。
電照菊の畑だったんですね。
真っ暗な闇の中、ひときわ輝いていた、電照菊畑の光景は、
今も忘れません。
2012年03月19日
港川門中、四つの可能性
新しく依頼を受けた、東村(ひがしそん)の港川松政
(しょうせい)さんの、系図について、書きたいと思います。
港川家の先祖は、首里王朝に仕えていた士族でした。
王府にとって、中国との交易は、非常に重要でした。
港川家の初代は、その大切な中国との交流に、欠かせ
ない、大変優秀な人だったのですが、あまりに秀でた
ため、周囲から妬まれてしまい、命まで狙われるように
なりました。
身の危険を感じた、初代は、ヤンバル・有銘(ありめ・
現・東村)まで、落ち延びました。
のちに、一族は、同じ東村の、慶佐次(げさし)、宮城と
分散して、現在に至っています。
以上は、『東村史』の280ページ、港川門中の項目からの、
抜粋です。
『東村史』ですが、村内の門中について、大変詳しく書いてあるので、驚きました。
沖縄の字誌は、たいてい、地元の門中について、書き記してあるものが、多いですが、
中でも『東村史』は、
とても詳しく書かれています。
港川松政さんによれば、先祖は、薩摩から琉球に、やって
来た人で、当初の姓は、「江田」だったと、お祖父さん
から、聞かされているそうです。
薩摩から来た、「江田」を名乗る先祖は、医者だったよう
です。
その先祖が使用した、医療用具箱が、戦後の一時期
まで、本家にあったと、言われています。
医者の家系と言えば、泊(とまり)士族の松氏(しょううじ)
ですが、一門の、名乗り頭は、「紀」です。
ところが、港川家の男子には、松吉、松三のように、
名乗り頭は「松」なので、これでは、合いません。
しかし、先祖は、松氏の「松」の字を、誤って、名乗り頭
に使った、可能性もあるので、これは、さらに調べる必要
があります。
ところで、沖縄には、もともと、江田姓があります。
『氏集』で、調べてみると、首里士族・江田姓の、名乗り頭
は、「守」「正」「竹」の三つありますが、これも、港川家の、
名乗り頭と、合致しません。
名乗り頭に、忠実に調べるなら、那覇士族の項(こう)氏
です。
項氏の、名乗り頭は「松」で、これは、港川家と、合致し
ます。
『氏集』を見ると、2458番に、「新参大宗項榮崇小橋川
筑登之親雲上松香」とあります。
2458番の家譜は、現存しているので、那覇の歴史博物
館で、家譜のコピーを、取ることができます。
薩摩が琉球に入ってきた後に、王府より功績が認めら
れて、士族に取り立てられた、新参の人たちです。
一方、港川の姓から、調べてみると、『氏集』の1640番
に、首里士族の吉(よし)氏があります。
元祖は、儀間金城親雲上(ぎまかなぐすくぺーちん)で、
17世紀には、港川親方(みなとがわうぇーかた)孟平
(もうへい)という人が、います。
この名乗り頭は、「孟」です。
士族の中で、港川姓が出てくるのは、これしかありま
せん。しかし、家譜の現存が、確認できません。
『氏集』によると、港川姓の人たちは、現在「百名(ひゃく
な)姓」を、名乗っています。
ちなみに、松政さんは、以前、港川家の、系図作成を、
行政書士の中村さんに、頼みました。
その中村さんが調べた、港川家の
家系図は、吉氏と断定して、書かれて
います。
今のところ、港川家の調査は、以上の
ように、考察されます。
まずは、那覇歴史博物館に行って、項氏の家譜を、
調べる事から、始めたいと思います。
(しょうせい)さんの、系図について、書きたいと思います。
港川家の先祖は、首里王朝に仕えていた士族でした。
王府にとって、中国との交易は、非常に重要でした。
港川家の初代は、その大切な中国との交流に、欠かせ
ない、大変優秀な人だったのですが、あまりに秀でた
ため、周囲から妬まれてしまい、命まで狙われるように
なりました。
身の危険を感じた、初代は、ヤンバル・有銘(ありめ・
現・東村)まで、落ち延びました。
のちに、一族は、同じ東村の、慶佐次(げさし)、宮城と
分散して、現在に至っています。
以上は、『東村史』の280ページ、港川門中の項目からの、
抜粋です。
沖縄の字誌は、たいてい、地元の門中について、書き記してあるものが、多いですが、
中でも『東村史』は、
とても詳しく書かれています。
港川松政さんによれば、先祖は、薩摩から琉球に、やって
来た人で、当初の姓は、「江田」だったと、お祖父さん
から、聞かされているそうです。
薩摩から来た、「江田」を名乗る先祖は、医者だったよう
です。
その先祖が使用した、医療用具箱が、戦後の一時期
まで、本家にあったと、言われています。
医者の家系と言えば、泊(とまり)士族の松氏(しょううじ)
ですが、一門の、名乗り頭は、「紀」です。
ところが、港川家の男子には、松吉、松三のように、
名乗り頭は「松」なので、これでは、合いません。
しかし、先祖は、松氏の「松」の字を、誤って、名乗り頭
に使った、可能性もあるので、これは、さらに調べる必要
があります。
ところで、沖縄には、もともと、江田姓があります。
『氏集』で、調べてみると、首里士族・江田姓の、名乗り頭
は、「守」「正」「竹」の三つありますが、これも、港川家の、
名乗り頭と、合致しません。
名乗り頭に、忠実に調べるなら、那覇士族の項(こう)氏
です。
項氏の、名乗り頭は「松」で、これは、港川家と、合致し
ます。
『氏集』を見ると、2458番に、「新参大宗項榮崇小橋川
筑登之親雲上松香」とあります。
2458番の家譜は、現存しているので、那覇の歴史博物
館で、家譜のコピーを、取ることができます。
薩摩が琉球に入ってきた後に、王府より功績が認めら
れて、士族に取り立てられた、新参の人たちです。
一方、港川の姓から、調べてみると、『氏集』の1640番
に、首里士族の吉(よし)氏があります。
元祖は、儀間金城親雲上(ぎまかなぐすくぺーちん)で、
17世紀には、港川親方(みなとがわうぇーかた)孟平
(もうへい)という人が、います。
この名乗り頭は、「孟」です。
士族の中で、港川姓が出てくるのは、これしかありま
せん。しかし、家譜の現存が、確認できません。
『氏集』によると、港川姓の人たちは、現在「百名(ひゃく
な)姓」を、名乗っています。
ちなみに、松政さんは、以前、港川家の、系図作成を、
行政書士の中村さんに、頼みました。
家系図は、吉氏と断定して、書かれて
います。
今のところ、港川家の調査は、以上の
ように、考察されます。
まずは、那覇歴史博物館に行って、項氏の家譜を、
調べる事から、始めたいと思います。
2012年03月15日
3.11 あの日をふり返って
去年起きた、東日本大震災から、丸一年が、経ちました。
3月11日は、終日テレビ報道で、一年前の巨大地震で、
人々の人生が、どのように狂ってしまったか、などのリポ
ートが、放映されていました。
一年前、あの大地震が起きた日、私は、パソコン学校
の夜間クラスで、授業を受けていました。
休み時間に、インターネットのヤッフーを見たクラスメート
が、「本土で大きな地震があったみたいよ!」と教えてく
れたのですが、大きな地震といっても、せいぜい震度5
くらいだろうと思い、たいして気にしませんでした。
ところが、次の休み時間に、ヤッフーのニュースを見たら、
なんと、仙台空港が、津波にのまれる映像がアップされ
ています。
巨大な飛行機が、まるでおもちゃのように、津波に押し
流されていました。
都内では、電車、バスなどの交通手段が、すべて止まっ
ていると聞き、耳を疑いました。
被害がひどいのは、東北地方沿岸ですが、私の身内は、
東京近郊外に住んでいるので、まず、その人たちのこ
とが、心配になりました。
その日は金曜だったので、みんな会社に、働きに行
っています。
都内の交通手段がストップしたとすれば、みんな家に
帰れずに、大騒ぎになっているだろうと、思いました。
まず、弟の携帯に電話をすると、幸いにも、すぐにつな
がりました。
しかし弟は、非常に切羽詰った感じで、「電車が動いて
ないから、歩いて嫁さんを迎えに行く」と言うのを聞き、
これは尋常でないと、思いました。
都内のどこからか、奥さんの勤め先のある、新宿方面
へ、歩いている、らしいのです。
帰宅してから、テレビのニュースを見て、言葉を失いました。
津波に破壊された、東北沿岸の町や村の映像、凶暴
な波に押し流される建物と人、夜空に燃える赤い炎、
そして都内では、交通手段が絶たれ、徒歩で家路に向
かって歩いている、群衆の映像が、映し出されていま
した。
それは、かつて見たことがないほど、ひどい有様でし
たが、同時に、これが現実なのだと、戦慄を覚えました。
再び弟に電話してみると、つながりません。
友人、知人、親戚のことが心配になり、手当たり次第に、
彼らの携帯に、電話をかけて、安否を確認しました。
何よりも心配だったのは、脳出血で寝たきりになり、
入院している、父のことです。
当時、父が入院していたのは、浦安病院でした。
報道によれば、浦安の街は、地盤沈下や液状化現象で、
泥が噴出している所があると、言います。
病院が被害にあっても、寝たきりの父は、自分で逃げる
こともできません。
沖縄に住んでいる私は、家族の一大事に、駆けつける
こともできず、この時ほど、東京と、沖縄の距離を、
思い知らされたことは、ありませんでした。
結局、新潟の叔母も含め、私の家族、親戚、友人たちは、
みんな無事でした。
今回の地震で、私たちは、何を学んだのでしょうか。
天災の恐ろしさ、もちろんそれは、学びましたが、それだ
けでは、ないと思います。
今回気付かされたのは、人と人との絆について、ではな
いでしょうか。
物が溢れ、何でも便利な現代では、人と人との連帯が
あまりなくとも、生きていけると、錯覚しがちだったよう
に、思います。
でもすべてを失ったとき、人が一番求めるものは、人の
心の温かさ、なのではないでしょうか。
人間は、食べ物だけで、生きていけないと思うのです。
血潮の通う、温かい、人との連帯が、必要なのだと
思います。
それにしても、払った犠牲は、あまりにも大きいものでした。
今回の震災は、明日のことは、誰も保証できないと、
教えてくれました。
今日は無事過せたかもしれませんが、明日何が起こ
るか、わかりません。
私たちは、心細さを感じながらも、この世を生きていか
なければ、ならないのですが、だからこそ、自分の家族
や、周りの人たちを慈しみ、日々の暮らしを大切に、生きて
いくことが、大切なのだと、思いました。
3月11日は、終日テレビ報道で、一年前の巨大地震で、
人々の人生が、どのように狂ってしまったか、などのリポ
ートが、放映されていました。
一年前、あの大地震が起きた日、私は、パソコン学校
の夜間クラスで、授業を受けていました。
休み時間に、インターネットのヤッフーを見たクラスメート
が、「本土で大きな地震があったみたいよ!」と教えてく
れたのですが、大きな地震といっても、せいぜい震度5
くらいだろうと思い、たいして気にしませんでした。
ところが、次の休み時間に、ヤッフーのニュースを見たら、
なんと、仙台空港が、津波にのまれる映像がアップされ
ています。
巨大な飛行機が、まるでおもちゃのように、津波に押し
流されていました。
都内では、電車、バスなどの交通手段が、すべて止まっ
ていると聞き、耳を疑いました。
被害がひどいのは、東北地方沿岸ですが、私の身内は、
東京近郊外に住んでいるので、まず、その人たちのこ
とが、心配になりました。
その日は金曜だったので、みんな会社に、働きに行
っています。
都内の交通手段がストップしたとすれば、みんな家に
帰れずに、大騒ぎになっているだろうと、思いました。
まず、弟の携帯に電話をすると、幸いにも、すぐにつな
がりました。
しかし弟は、非常に切羽詰った感じで、「電車が動いて
ないから、歩いて嫁さんを迎えに行く」と言うのを聞き、
これは尋常でないと、思いました。
都内のどこからか、奥さんの勤め先のある、新宿方面
へ、歩いている、らしいのです。
帰宅してから、テレビのニュースを見て、言葉を失いました。
津波に破壊された、東北沿岸の町や村の映像、凶暴
な波に押し流される建物と人、夜空に燃える赤い炎、
そして都内では、交通手段が絶たれ、徒歩で家路に向
かって歩いている、群衆の映像が、映し出されていま
した。
それは、かつて見たことがないほど、ひどい有様でし
たが、同時に、これが現実なのだと、戦慄を覚えました。
再び弟に電話してみると、つながりません。
友人、知人、親戚のことが心配になり、手当たり次第に、
彼らの携帯に、電話をかけて、安否を確認しました。
何よりも心配だったのは、脳出血で寝たきりになり、
入院している、父のことです。
当時、父が入院していたのは、浦安病院でした。
報道によれば、浦安の街は、地盤沈下や液状化現象で、
泥が噴出している所があると、言います。
病院が被害にあっても、寝たきりの父は、自分で逃げる
こともできません。
沖縄に住んでいる私は、家族の一大事に、駆けつける
こともできず、この時ほど、東京と、沖縄の距離を、
思い知らされたことは、ありませんでした。
結局、新潟の叔母も含め、私の家族、親戚、友人たちは、
みんな無事でした。
今回の地震で、私たちは、何を学んだのでしょうか。
天災の恐ろしさ、もちろんそれは、学びましたが、それだ
けでは、ないと思います。
今回気付かされたのは、人と人との絆について、ではな
いでしょうか。
物が溢れ、何でも便利な現代では、人と人との連帯が
あまりなくとも、生きていけると、錯覚しがちだったよう
に、思います。
でもすべてを失ったとき、人が一番求めるものは、人の
心の温かさ、なのではないでしょうか。
人間は、食べ物だけで、生きていけないと思うのです。
血潮の通う、温かい、人との連帯が、必要なのだと
思います。
それにしても、払った犠牲は、あまりにも大きいものでした。
今回の震災は、明日のことは、誰も保証できないと、
教えてくれました。
今日は無事過せたかもしれませんが、明日何が起こ
るか、わかりません。
私たちは、心細さを感じながらも、この世を生きていか
なければ、ならないのですが、だからこそ、自分の家族
や、周りの人たちを慈しみ、日々の暮らしを大切に、生きて
いくことが、大切なのだと、思いました。
2012年03月08日
門中の人だけが知っている真実
系図調査中の、読谷村座喜味(ざきみ)の島袋門中と、
馮氏(ひょううじ)諸見里家は、大里王子の不思議な縁で、
繋がっているらしいと、書いたことがあります。
諸見里門中には、「大里王子の子孫である」と、
口伝に、伝えられています。
また、島袋家の古い資料には、門中行事のウマチーの
時などは、那覇市古島(ふるしま)にある、諸見里本家
の墓拝みする記録や、大里王子に縁があるような、
記述があるのです。
島袋門中の比嘉憲一さんによると、次のような、
話もあります。
昭和13年ごろ、山田城(グスク・恩納村山田)から、
掘り起こした遺骨を、古島の諸見里本家が、島袋家に、
引取りに来たことがあったと、当時10歳位だった、
憲一さんは、覚えています。
憲一さんも含めて、島袋門中の人たちは、その遺骨が、
一体誰のものだったのか、わからないままです。
しかし、わざわざ那覇から、引き取りに来るほどですから、
諸見里家にとっては、相当大切な、遺骨に違いありません。
一体、諸見里本家にとって、大切な遺骨とは、誰だった
のかという疑問を、諸見里門中の歴史に詳しい、具志川
(ぐしかわ)に住む、當山トヨ子さんに聞いてみると、驚く
ような答えが、返って来ました。
トヨ子さんによると、それは、大里王子の遺骨だと、諸見
里本家の方から、聞いていたそうです。
そして、那覇市古島の、諸見里本家近くの、カラヤムイ
には、大里王子の墓もあり、門中の人たちは、そこを
拝んでいるそうなのです。
大里王子は、琉球王国の第二尚氏王統・第三代国王・
尚真王の二男、朝栄(ちょうえい)です。
国王の二男なのに、不思議なことに、歴史書には、朝栄
についての記録は、ほとんどないのですが、ただ「王代記」
によれば、朝栄の母親や、本人の生死の年月日も不明
とされ、天界寺に祀られている、とだけ書かれていました。
天界寺とは、かつては首里城に隣接していた、寺院です。
しかし、沖縄戦の時、第32軍の司令部があった首里城の
辺りは、徹底的に破壊され、今では跡形もなく、一部の
石垣と、井戸が残るだけに、なっています。
尚真王の次男・朝栄と、その兄・長男の維衡(いこう)、
そして王の后・居仁(きょに・維衡の母)の三人は、王家の
墓・玉陵(たまうどぅん)に葬られることを、禁じられている
のですが、これには、王位継承を巡る、骨肉の争いが、
絡んでいるらしいと、言われています。
歴史書などの公的資料には、朝栄こと大里王子は、
どこに葬られているかも、不明とされていますが、その
遺骨は、かつては山田城に眠っていて、後に、諸見里
家に引き取られ、本家の墓に収められた・・というので
すから、事実は小説より奇なり、だと思いました。
ところで、大里王子が葬られていたとされる、山田城
のあった所は、かつては、読谷山(ゆんたんざ)村で
した。
それが、1673年に、恩納間切(おんなまぎり)が設け
られた後、読谷山村は、古読谷山村と呼ばれ、後に、
山田村になったのだと、『読谷山の由来記』(読谷村市
史編集室)には、書かれています。
その読谷山間切の総地頭である、読谷山親方(うぇー
かた)の盛泰(もりやす)が、島袋家の先祖らしい、とい
うことが、わかってきました。
総地頭とは、一間切(琉球時代の行政区分)を、
治めていた人です。
島袋家と、大里王子の関連は、そこにあると、思います。
つまり、大里王子の眠っていた山田城は、読谷山間切
の総地頭として、読谷山村(後に山田村)を治めていた
先祖を持つ、島袋家に、ゆかりのある土地、だということ
です。
大里王子は、王家から冷遇されたとはいえ、王家の人
に、変わりありません。
王家は、読谷間切の総地頭を務めていた、島袋家の
先祖に、大里王子朝栄の墓守を依頼して、その見返り
として、島袋家は、王家から、財を与えられた、のかも
しれません。
戦前の、島袋家を知る人の話では、島袋家は、座喜味
でも、一番の金持ちだったというから、この推測は、
当たっているかもしれません。
諸見里本家は、山田城に、大里王子の遺骨があるこ
とを、何らかの手段で突き止め、墓守をしていた島袋家
から、引き取った、のではないでしょうか。
ただ、ひとつ気になるのは、大里王子の子孫として、
今も読谷村に住み暮らしているのは、津波家だと
いう、証言があることです。
その昔、首里城を追われた、大里王子は、読谷山
村の読谷山(山田)へ、逃れていた、ことがあります。
その時、王子が読谷山で過している間に、座喜味の
屋号・島袋屋(しまぶくやー)の娘と懇ろになり、
二人の間に子どもが生まれました。
その子孫が、津波家らしいのです。
この津波家と、島袋家が、どうつながるかについては、
これから調べていこうと、思っています。
このような推測を元に、那覇市古島にあるという、大里
王子の墓を、探しに行ってみました。
諸見里本家から、少し離れた所に、ムイ(森)と呼んで
いいような、こんもりとした、丘がありますが、これが
お墓のある、カラヤムイなのでしょうか。。
那覇から首里に
通じる、29号線
を上がっていくと、
日航グランドキャッ
スルホテルが見
えますが、この
あたりは、首里
山川町になり
ます。
カラヤムイがあるのは、日航グランドキャッスルの、すぐ
裏のくぼ地で、山川町の住宅のはずれにあります。
その北側は、真嘉比遊水地があり、その向こうには、
真嘉比川を隔てて、古島の住宅が広がっています。
散歩をしている地元の人に、ここがカラヤムイだと、
確認しました。
カラヤムイは、標高50メートルくらいの、土グスクの
ような丘で、辺りはお墓が幾つもあり、昔から墓地
だったことが、わかります。
カラヤムイの周囲に広がる、畑地を突っ切って、
登ってみました。
草で覆われた細道を登っていくと、一番奥に馮氏諸見里本家の墓がありました。
自然の岩盤をくりぬい
た、掘り込み墓で、馮氏
諸見里本家の墓の碑の
裏には、1982年6月
17日に、造られたと、
刻まれています。
墓には、ここに大里王子が眠っている、というような、
表記は一切ありませんが、ここには、門中の人だけが
知っている、歴史の裏の真実が、あるような気がして、
なりませんでした。

馮氏(ひょううじ)諸見里家は、大里王子の不思議な縁で、
繋がっているらしいと、書いたことがあります。
諸見里門中には、「大里王子の子孫である」と、
口伝に、伝えられています。
また、島袋家の古い資料には、門中行事のウマチーの
時などは、那覇市古島(ふるしま)にある、諸見里本家
の墓拝みする記録や、大里王子に縁があるような、
記述があるのです。
島袋門中の比嘉憲一さんによると、次のような、
話もあります。
昭和13年ごろ、山田城(グスク・恩納村山田)から、
掘り起こした遺骨を、古島の諸見里本家が、島袋家に、
引取りに来たことがあったと、当時10歳位だった、
憲一さんは、覚えています。
憲一さんも含めて、島袋門中の人たちは、その遺骨が、
一体誰のものだったのか、わからないままです。
しかし、わざわざ那覇から、引き取りに来るほどですから、
諸見里家にとっては、相当大切な、遺骨に違いありません。
一体、諸見里本家にとって、大切な遺骨とは、誰だった
のかという疑問を、諸見里門中の歴史に詳しい、具志川
(ぐしかわ)に住む、當山トヨ子さんに聞いてみると、驚く
ような答えが、返って来ました。
トヨ子さんによると、それは、大里王子の遺骨だと、諸見
里本家の方から、聞いていたそうです。
そして、那覇市古島の、諸見里本家近くの、カラヤムイ
には、大里王子の墓もあり、門中の人たちは、そこを
拝んでいるそうなのです。
大里王子は、琉球王国の第二尚氏王統・第三代国王・
尚真王の二男、朝栄(ちょうえい)です。
国王の二男なのに、不思議なことに、歴史書には、朝栄
についての記録は、ほとんどないのですが、ただ「王代記」
によれば、朝栄の母親や、本人の生死の年月日も不明
とされ、天界寺に祀られている、とだけ書かれていました。
天界寺とは、かつては首里城に隣接していた、寺院です。
しかし、沖縄戦の時、第32軍の司令部があった首里城の
辺りは、徹底的に破壊され、今では跡形もなく、一部の
石垣と、井戸が残るだけに、なっています。
尚真王の次男・朝栄と、その兄・長男の維衡(いこう)、
そして王の后・居仁(きょに・維衡の母)の三人は、王家の
墓・玉陵(たまうどぅん)に葬られることを、禁じられている
のですが、これには、王位継承を巡る、骨肉の争いが、
絡んでいるらしいと、言われています。
歴史書などの公的資料には、朝栄こと大里王子は、
どこに葬られているかも、不明とされていますが、その
遺骨は、かつては山田城に眠っていて、後に、諸見里
家に引き取られ、本家の墓に収められた・・というので
すから、事実は小説より奇なり、だと思いました。
ところで、大里王子が葬られていたとされる、山田城
のあった所は、かつては、読谷山(ゆんたんざ)村で
した。
それが、1673年に、恩納間切(おんなまぎり)が設け
られた後、読谷山村は、古読谷山村と呼ばれ、後に、
山田村になったのだと、『読谷山の由来記』(読谷村市
史編集室)には、書かれています。
その読谷山間切の総地頭である、読谷山親方(うぇー
かた)の盛泰(もりやす)が、島袋家の先祖らしい、とい
うことが、わかってきました。
総地頭とは、一間切(琉球時代の行政区分)を、
治めていた人です。
島袋家と、大里王子の関連は、そこにあると、思います。
つまり、大里王子の眠っていた山田城は、読谷山間切
の総地頭として、読谷山村(後に山田村)を治めていた
先祖を持つ、島袋家に、ゆかりのある土地、だということ
です。
大里王子は、王家から冷遇されたとはいえ、王家の人
に、変わりありません。
王家は、読谷間切の総地頭を務めていた、島袋家の
先祖に、大里王子朝栄の墓守を依頼して、その見返り
として、島袋家は、王家から、財を与えられた、のかも
しれません。
戦前の、島袋家を知る人の話では、島袋家は、座喜味
でも、一番の金持ちだったというから、この推測は、
当たっているかもしれません。
諸見里本家は、山田城に、大里王子の遺骨があるこ
とを、何らかの手段で突き止め、墓守をしていた島袋家
から、引き取った、のではないでしょうか。
ただ、ひとつ気になるのは、大里王子の子孫として、
今も読谷村に住み暮らしているのは、津波家だと
いう、証言があることです。
その昔、首里城を追われた、大里王子は、読谷山
村の読谷山(山田)へ、逃れていた、ことがあります。
その時、王子が読谷山で過している間に、座喜味の
屋号・島袋屋(しまぶくやー)の娘と懇ろになり、
二人の間に子どもが生まれました。
その子孫が、津波家らしいのです。
この津波家と、島袋家が、どうつながるかについては、
これから調べていこうと、思っています。
このような推測を元に、那覇市古島にあるという、大里
王子の墓を、探しに行ってみました。
諸見里本家から、少し離れた所に、ムイ(森)と呼んで
いいような、こんもりとした、丘がありますが、これが
お墓のある、カラヤムイなのでしょうか。。
那覇から首里に
通じる、29号線
を上がっていくと、
日航グランドキャッ
スルホテルが見
えますが、この
あたりは、首里
山川町になり
ます。
カラヤムイがあるのは、日航グランドキャッスルの、すぐ
裏のくぼ地で、山川町の住宅のはずれにあります。
その北側は、真嘉比遊水地があり、その向こうには、
真嘉比川を隔てて、古島の住宅が広がっています。
散歩をしている地元の人に、ここがカラヤムイだと、
確認しました。
カラヤムイは、標高50メートルくらいの、土グスクの
ような丘で、辺りはお墓が幾つもあり、昔から墓地
だったことが、わかります。
カラヤムイの周囲に広がる、畑地を突っ切って、
登ってみました。
自然の岩盤をくりぬい
た、掘り込み墓で、馮氏
諸見里本家の墓の碑の
裏には、1982年6月
17日に、造られたと、
刻まれています。
墓には、ここに大里王子が眠っている、というような、
表記は一切ありませんが、ここには、門中の人だけが
知っている、歴史の裏の真実が、あるような気がして、
なりませんでした。
2012年03月06日
ひな祭りの日
石川へ行ってきました。
前回いただいた、野菜の美味しさが、忘れられずにいた
ところ、また畑の野菜を、取っていいよと、豊浜さんに、
お許しを、いただいたのです。
集まったのは、久高律子さん、野里寿子さん、いつもの
メンバーです。
今回も、ンスナバー、ダイコンをいただきました。春菊は、
もう終わりかけていたので、いい部分だけ摘み取りました。
土中に埋まるダイコンは、青々とした葉を、盛大に広げ
ています。これを引き抜きます。
ダイコンに、両手をかけ、えいと引くのですが、雨を
含んで、湿り気を帯びた土の中に、埋まっているダイ
コンは、簡単に引き抜けません。
慎重に力を入れながら、引っ張ったのですが、ボキッと、
折れてしまいました・・・
まだ三分の一ほどのダイコンが、土中に埋まっています。

道具がないので、素手で土を掘ってみますが、
思ったより、深く埋もれているダイコンは、掘り
出すのも、簡単ではありません。
スコップはないかと、探し回りましたが、見当
たらず、近くで畑をやっている人に、借りに行っている間、久高さんが奮闘!
ダイコンを、掘り出してくれました。(久高さん、本当にありがとう!
)
その後、石川市内に住む、伊波(いは)春代さんの
お宅に、伺いました。
53年前、石川の宮森小学校に、米軍の戦闘機が突っ
込み、当時6年生だった、春代さんの長男・正行君は、
亡くなりました。
たくさんの悲しみを重ねた、春代さんの、今の楽しみは、
畑で野菜を作ることです。
畑で土と、丹精する野菜に囲まれていると、本当に
楽しいと、嬉しそうに、語っていました。
春代さん宅を訪ねた時には、夕飯時になっていたので、
みんなでお夕飯を、いただくことに、なりました。
献立は、真鯛の魚汁、取れたてのダイコンのシリシリ(千切り)サラダ、春代さんの畑で取れた、ジャガイモの、マッシュポテト、そして、市販の散らし寿司です。
その日はちょうど、桃の節句の日でした。
女性四人、美味しい食事と、おしゃべりを楽しんで、
まるで、ひな祭りのために、集まったかのようでした。
読谷村座喜味(よみたんそんざきみ)出身の春代さんに、
いま系図作成に取り組んでいる、座喜味の島袋小
(シマブクグァ・屋号)のことを、聞いてみました。
島袋小は、昔は村一番の金持ちだった、ということは、
覚えているけど、座喜味の門中については、よくわか
らないと、言いました。
春代さんの実家は、屋号・後上原(クシイーバル)で、
そこには、弟さん夫婦が、今も住んでいるそうです。
春代さんが、座喜味出身の、波平正康さんの自伝『85年のあしあと 人はただ情(なさけ)』を、見せてくれました。
これは波平さんが、36年分の日記を元に、「丑年」
85歳の年日祝(トゥシビー)を記念して、書いた自叙伝です。
昔の座喜味の生活や、戦争の話、戦後の話などが、
綴られています。
その中の資料に、「昔座喜味にあったこと、見たこと、聞い
たこと」があります。
何か情報があるかもしれないと思い、春代さんに、
波平さんの本を、貸していただきました。
図書館に置いてない、貴重な資料です。
帰宅して、大量の野菜を、洗う作業が、待っていました。
時刻は、夜中の2時を、廻っていましたが、今晩中に
洗わなければ、せっかくの新鮮野菜が、萎れてしまい
ます。
畑から取ってきた野菜は、新鮮ですが、代わりに、青虫
やら、カタツムリなど、いろいろな虫が付いているので、
桶に流し水を張って、何度も水を変えて、洗い流します。

春菊、カンダバー(芋の葉)、ンスナバーの葉の、みずみずしいこと!
真夜中に台所で、一
人、野菜をジャブジャ
ブと、洗っているわけ
ですが、なぜか、ちっ
とも眠くなく、幸せな
気分に、なりました。
もしかすると、本当の豊かさとは、こういうものではないか・・
と思いました。
豊かさとは、自分自身と、自分たちの生活を、おろそかに
しないで、丁寧に生きていくこと、ではないでしょうか・・
お金がたくさんあるとか、物をたくさん持っていることは、
関係ないと、思いました。
今まで、料理や家事に、苦手意識を持っていたことを反省し、
もっと生活そのものを、楽しめばいい、こんな当たり前のこ
とに、今さらながら、気付いたわけです。
幸せは、案外身近なところに、あるものなんですね。
最後に、私のお雛様を、紹介したいと、思います。
これは私が、生まれて初めて、桃の節句を迎える時、母方
の祖母が、買ってくれたものです。
たしか、地元の新小岩の、玩具店で買った、
ケース入りの雛人形です。
従妹が持っていたような、五段飾りのような、
華やかさはありませんが、手のひらに乗る、
優しい顔の、雛人形たちです。
もう40年以上も経つ、古いものなので、お内裏様は、
用心しないと、かつらが取れてしまいますし、お囃子や、
右大臣、左大臣の髪は、寝癖のように、髪がはねたり、
烏帽子の結び紐が、ひん曲がったりしているのですが、
どの雛人形も愛しい、私の宝物です。
こんな可愛い、雛人形を買ってくれた、祖母に、感謝し
ています。
雛人形を見ていると、祖母の優しい、眼差しを思い出
します。
ひな祭りは、過ぎてしまいましたが、雛人形たちが
可愛いので、もうしばらく、飾っておこうと思います。
前回いただいた、野菜の美味しさが、忘れられずにいた
ところ、また畑の野菜を、取っていいよと、豊浜さんに、
お許しを、いただいたのです。
集まったのは、久高律子さん、野里寿子さん、いつもの
メンバーです。
今回も、ンスナバー、ダイコンをいただきました。春菊は、
もう終わりかけていたので、いい部分だけ摘み取りました。
土中に埋まるダイコンは、青々とした葉を、盛大に広げ
ています。これを引き抜きます。
ダイコンに、両手をかけ、えいと引くのですが、雨を
含んで、湿り気を帯びた土の中に、埋まっているダイ
コンは、簡単に引き抜けません。
慎重に力を入れながら、引っ張ったのですが、ボキッと、
折れてしまいました・・・

まだ三分の一ほどのダイコンが、土中に埋まっています。
道具がないので、素手で土を掘ってみますが、
思ったより、深く埋もれているダイコンは、掘り
出すのも、簡単ではありません。
スコップはないかと、探し回りましたが、見当
たらず、近くで畑をやっている人に、借りに行っている間、久高さんが奮闘!
ダイコンを、掘り出してくれました。(久高さん、本当にありがとう!
)その後、石川市内に住む、伊波(いは)春代さんの
お宅に、伺いました。
53年前、石川の宮森小学校に、米軍の戦闘機が突っ
込み、当時6年生だった、春代さんの長男・正行君は、
亡くなりました。
たくさんの悲しみを重ねた、春代さんの、今の楽しみは、
畑で野菜を作ることです。
畑で土と、丹精する野菜に囲まれていると、本当に
楽しいと、嬉しそうに、語っていました。
春代さん宅を訪ねた時には、夕飯時になっていたので、
みんなでお夕飯を、いただくことに、なりました。
その日はちょうど、桃の節句の日でした。
女性四人、美味しい食事と、おしゃべりを楽しんで、
まるで、ひな祭りのために、集まったかのようでした。
読谷村座喜味(よみたんそんざきみ)出身の春代さんに、
いま系図作成に取り組んでいる、座喜味の島袋小
(シマブクグァ・屋号)のことを、聞いてみました。
島袋小は、昔は村一番の金持ちだった、ということは、
覚えているけど、座喜味の門中については、よくわか
らないと、言いました。
春代さんの実家は、屋号・後上原(クシイーバル)で、
そこには、弟さん夫婦が、今も住んでいるそうです。
これは波平さんが、36年分の日記を元に、「丑年」
85歳の年日祝(トゥシビー)を記念して、書いた自叙伝です。
昔の座喜味の生活や、戦争の話、戦後の話などが、
綴られています。
その中の資料に、「昔座喜味にあったこと、見たこと、聞い
たこと」があります。
何か情報があるかもしれないと思い、春代さんに、
波平さんの本を、貸していただきました。
図書館に置いてない、貴重な資料です。
帰宅して、大量の野菜を、洗う作業が、待っていました。
時刻は、夜中の2時を、廻っていましたが、今晩中に
洗わなければ、せっかくの新鮮野菜が、萎れてしまい
ます。
畑から取ってきた野菜は、新鮮ですが、代わりに、青虫
やら、カタツムリなど、いろいろな虫が付いているので、
桶に流し水を張って、何度も水を変えて、洗い流します。
春菊、カンダバー(芋の葉)、ンスナバーの葉の、みずみずしいこと!
真夜中に台所で、一
人、野菜をジャブジャ
ブと、洗っているわけ
ですが、なぜか、ちっ
とも眠くなく、幸せな
気分に、なりました。
もしかすると、本当の豊かさとは、こういうものではないか・・
と思いました。
豊かさとは、自分自身と、自分たちの生活を、おろそかに
しないで、丁寧に生きていくこと、ではないでしょうか・・
お金がたくさんあるとか、物をたくさん持っていることは、
関係ないと、思いました。
今まで、料理や家事に、苦手意識を持っていたことを反省し、
もっと生活そのものを、楽しめばいい、こんな当たり前のこ
とに、今さらながら、気付いたわけです。
幸せは、案外身近なところに、あるものなんですね。
最後に、私のお雛様を、紹介したいと、思います。
これは私が、生まれて初めて、桃の節句を迎える時、母方
の祖母が、買ってくれたものです。
ケース入りの雛人形です。
従妹が持っていたような、五段飾りのような、
華やかさはありませんが、手のひらに乗る、
優しい顔の、雛人形たちです。
もう40年以上も経つ、古いものなので、お内裏様は、
用心しないと、かつらが取れてしまいますし、お囃子や、
右大臣、左大臣の髪は、寝癖のように、髪がはねたり、
烏帽子の結び紐が、ひん曲がったりしているのですが、
どの雛人形も愛しい、私の宝物です。
こんな可愛い、雛人形を買ってくれた、祖母に、感謝し
ています。
雛人形を見ていると、祖母の優しい、眼差しを思い出
します。
ひな祭りは、過ぎてしまいましたが、雛人形たちが
可愛いので、もうしばらく、飾っておこうと思います。
2012年03月05日
毛氏・仲天久家と那氏・新垣家
新しく着手した、系図について、書きたいと思います。
まず一つは、伊波義雄さんからの、依頼です。
義男さんは、以前手がけた、崎間(さきま)門中の、ご親戚
です。
崎間門中調査の時には、貴重な歴史文献や、資料を提供して
くださり、大変役立ちました。
今回は、義男さんのお母様の実家、屋号「仲天久家(なかあめ
く)」についての、系図依頼です。
義雄さんが書いた、屋号「仲天久家」の系図を、見せていただ
きました。
この家系は、毛(もう)姓の、豊見城親方盛親(とみしろうぇーかた
もりちか)を、先祖に持つ、由緒ある、首里士族です。
毛氏(もううじ)豊見城家は、琉球の、五大名門家の一つです。
その他は、王家の分家である向氏、何人もの三司官を輩出して
王府で活躍した、翁氏(おううじ)、馬氏(まーうじ)、毛氏池城
(もううじいちぐすく)があります。
ちなみに、豊見城親方盛親の、もっと先代をたどっていくと、14
世紀の名だたる武人、護佐丸(ごさまる)の名を、先祖に見つけ
ることが、できます。
「仲天久家」の宗家である、伊波家は、屋号「末吉(しーし)」と
いい、嘉数(かかず)村(現・宜野湾市嘉数)で、村の祭祀を司る、
根人(ニーンチュ)を先祖に持つ、家系です。
根人とは、集落の草分けである、宗家の主人のことで、その妹は、
集落の祭祀を司る、根神(ニーガミ)とされています。
根神は、その家の女性が、代々継承していくものですが、末吉
門中は、男性の根神を、祖先に持つ、珍しい家系であると、
言えます。
もう一つの仕事は、那氏(なーうじ)新垣家の、依頼です。

こちらは、新垣親雲上(あらがきぺーちん)善将を立口(たちくち・元祖)とし、男子に「善」の、名乗頭(なのりがしら)が付く、同じく首里士族の、門中です。
依頼人の新垣善博さんは、沖縄大手の、総合卸売業・
㈱ジーマグループ・物流部門の、㈱ジーマックの、社長さんです。
新垣さんは、自分のルーツを知りたい、ということで、系図作成を、
依頼されています。
新垣家の祖先の一部が、首里から、中城(なかぐすく)に移り住み、
そこから、さらに糸満に分家した、新垣善布(ぜんふ)を祖とするの
が、新垣さんの家系で、以来、代々糸満に暮らす、生粋のイトマン
チュです。
新垣さんは、今年の四月末に、新しくお墓を作る、予定です。
そして、新垣家の系図ができたら、それをお墓に納めたいと、考え
ていらっしゃいます。
お墓には、那氏・新垣家とは、どういう家系であるかという、碑文も
建てる、予定だそうです。
それに間に合わせるために、新垣家の系図は、今月中に、仕上
げる予定で、取り組みます。
まず一つは、伊波義雄さんからの、依頼です。
義男さんは、以前手がけた、崎間(さきま)門中の、ご親戚
です。
崎間門中調査の時には、貴重な歴史文献や、資料を提供して
くださり、大変役立ちました。
今回は、義男さんのお母様の実家、屋号「仲天久家(なかあめ
く)」についての、系図依頼です。
義雄さんが書いた、屋号「仲天久家」の系図を、見せていただ
きました。
この家系は、毛(もう)姓の、豊見城親方盛親(とみしろうぇーかた
もりちか)を、先祖に持つ、由緒ある、首里士族です。
毛氏(もううじ)豊見城家は、琉球の、五大名門家の一つです。
その他は、王家の分家である向氏、何人もの三司官を輩出して
王府で活躍した、翁氏(おううじ)、馬氏(まーうじ)、毛氏池城
(もううじいちぐすく)があります。
ちなみに、豊見城親方盛親の、もっと先代をたどっていくと、14
世紀の名だたる武人、護佐丸(ごさまる)の名を、先祖に見つけ
ることが、できます。
「仲天久家」の宗家である、伊波家は、屋号「末吉(しーし)」と
いい、嘉数(かかず)村(現・宜野湾市嘉数)で、村の祭祀を司る、
根人(ニーンチュ)を先祖に持つ、家系です。
根人とは、集落の草分けである、宗家の主人のことで、その妹は、
集落の祭祀を司る、根神(ニーガミ)とされています。
根神は、その家の女性が、代々継承していくものですが、末吉
門中は、男性の根神を、祖先に持つ、珍しい家系であると、
言えます。
もう一つの仕事は、那氏(なーうじ)新垣家の、依頼です。
こちらは、新垣親雲上(あらがきぺーちん)善将を立口(たちくち・元祖)とし、男子に「善」の、名乗頭(なのりがしら)が付く、同じく首里士族の、門中です。
依頼人の新垣善博さんは、沖縄大手の、総合卸売業・
㈱ジーマグループ・物流部門の、㈱ジーマックの、社長さんです。
新垣さんは、自分のルーツを知りたい、ということで、系図作成を、
依頼されています。
新垣家の祖先の一部が、首里から、中城(なかぐすく)に移り住み、
そこから、さらに糸満に分家した、新垣善布(ぜんふ)を祖とするの
が、新垣さんの家系で、以来、代々糸満に暮らす、生粋のイトマン
チュです。
新垣さんは、今年の四月末に、新しくお墓を作る、予定です。
そして、新垣家の系図ができたら、それをお墓に納めたいと、考え
ていらっしゃいます。
お墓には、那氏・新垣家とは、どういう家系であるかという、碑文も
建てる、予定だそうです。
それに間に合わせるために、新垣家の系図は、今月中に、仕上
げる予定で、取り組みます。
2012年02月29日
ルーツを知るということ
今日は、琉球放送の取材が、球陽出版でありました。
取材を受ける、呉屋弘光社長は、カメラに臆することもなく、堂々と、
球陽出版が、今まで作った家系図などを、
比嘉ちはるリポーターに、見せながら、インタ
ビューに、答えていました。
実際の門中家系図は、系図だけでなく、門中の歴史
やエピソードが、わかりやすく、書かれたものも、載っ
ています。
そして、各系図に添えて、家族の写真が、盛り込まれて
いるので、同じ門中に、どのような人がいるか、一目で
わかるし、その人と自分が、どんな繋がりなのかも、よく
わかるわけです。
それは、間違いなく、親族の、素晴らしい、記念になります。

系図を作ることは、遠い
ご先祖様のことを、知る
だけでなく、現在生きて
いる人たちが、門中の
中で、絆をつなぐもの、
それが系図、なのだと
思います。
それによって、門中、親族の絆が、いっそう強まるように
なったら、こんないいことは、ありません。
この仕事をしていて、こんなふうに、自分たちのルーツや、
親族について、深く知るチャンスがある人たちのことを、
羨ましく、思っています。
私は、東京都江戸川区の生まれで、三代続いた、江戸っ子
ですが、自分のルーツというものを、よく知りません。
姓は「中嶋」といいます。
なんでも、父方の曾祖父の時代に、新潟県は弥彦(やひこ)村
から東京に出て、港区芝、東京タワーの目と鼻の先で、風呂屋
をやっていたそうです。
東京で風呂屋を、経営している人に、新潟出身の人は、多い
のだそうです。
父は、芝の家のことを、覚えていて、時々話してくれたことが、
ありました。
女中が何人もいて、裕福な暮らしを、していたそうですが、太平
洋戦争が始まり、新潟弥彦に、疎開しました。
この時、祖父が、芝の土地を、全部売ってしまったので、戦後、
東京へ戻ってきた、父たちは、江戸川区小松川に、移り住ん
だのです。
あれはもう、18年位前になりますが、戦争当時、疎開していた
という、新潟弥彦に、私の両親、父の弟夫婦二組、妹、そして私
の8人で、尋ねて行ったことがあります。
たぶん、法事か何かで集まった時、疎開時代の、弥彦の思い出
話に花が咲き、みんなで行ってみよう、ということに、なったわけ
です。
弥彦には、中嶋家の祖先の墓があるのですが、今は新潟に、
だれも親族がいないため、墓の管理は、お寺さんに、管理料
を送り、任せっきりに、なっていました。
もう寺の名前も、忘れてしまいましたが、みんなでその寺へ
行き、祖先の墓に、手を合わせました。
しかしその後、新潟とのつながりは、それっきりになってしまい、
ご先祖のことは、わからないままに、なっています。
一方、母方の祖母は「池田」といい、新潟県松代から、さらに
奥まった、田野倉という部落の出です。
20年位前、母と、叔父と一緒に、尋ねたことがありますが、
あまりに山奥で、いかにも、狐狸が出るような所なので、驚き
ました。
冬には、雪が、一階の出口を、塞いでしまうほど、積もる、
豪雪地帯です。
この母方の先祖のことも、わかりません。
ただ一つ、わかっているのは、私のルーツは新潟だ、という
ことなのです。
もしそのルーツを、知ることができたならば、いま自分がこうして
生きているのは、そのご先祖様たちがいたからだ、と実感でき
ます。
何百年も続いている、血のつながりを、実感できたら、人は、
今生きていることに、もっと謙虚になれるのでは、ないでしょうか。
系図作りは、それに気付く、いい機会になるのだと、思います。
球陽出版が、今まで作った家系図などを、
比嘉ちはるリポーターに、見せながら、インタ
ビューに、答えていました。
実際の門中家系図は、系図だけでなく、門中の歴史
やエピソードが、わかりやすく、書かれたものも、載っ
ています。
そして、各系図に添えて、家族の写真が、盛り込まれて
いるので、同じ門中に、どのような人がいるか、一目で
わかるし、その人と自分が、どんな繋がりなのかも、よく
わかるわけです。
それは、間違いなく、親族の、素晴らしい、記念になります。
系図を作ることは、遠い
ご先祖様のことを、知る
だけでなく、現在生きて
いる人たちが、門中の
中で、絆をつなぐもの、
それが系図、なのだと
思います。
それによって、門中、親族の絆が、いっそう強まるように
なったら、こんないいことは、ありません。
この仕事をしていて、こんなふうに、自分たちのルーツや、
親族について、深く知るチャンスがある人たちのことを、
羨ましく、思っています。
私は、東京都江戸川区の生まれで、三代続いた、江戸っ子
ですが、自分のルーツというものを、よく知りません。
姓は「中嶋」といいます。
なんでも、父方の曾祖父の時代に、新潟県は弥彦(やひこ)村
から東京に出て、港区芝、東京タワーの目と鼻の先で、風呂屋
をやっていたそうです。
東京で風呂屋を、経営している人に、新潟出身の人は、多い
のだそうです。
父は、芝の家のことを、覚えていて、時々話してくれたことが、
ありました。
女中が何人もいて、裕福な暮らしを、していたそうですが、太平
洋戦争が始まり、新潟弥彦に、疎開しました。
この時、祖父が、芝の土地を、全部売ってしまったので、戦後、
東京へ戻ってきた、父たちは、江戸川区小松川に、移り住ん
だのです。
あれはもう、18年位前になりますが、戦争当時、疎開していた
という、新潟弥彦に、私の両親、父の弟夫婦二組、妹、そして私
の8人で、尋ねて行ったことがあります。
たぶん、法事か何かで集まった時、疎開時代の、弥彦の思い出
話に花が咲き、みんなで行ってみよう、ということに、なったわけ
です。
弥彦には、中嶋家の祖先の墓があるのですが、今は新潟に、
だれも親族がいないため、墓の管理は、お寺さんに、管理料
を送り、任せっきりに、なっていました。
もう寺の名前も、忘れてしまいましたが、みんなでその寺へ
行き、祖先の墓に、手を合わせました。
しかしその後、新潟とのつながりは、それっきりになってしまい、
ご先祖のことは、わからないままに、なっています。
一方、母方の祖母は「池田」といい、新潟県松代から、さらに
奥まった、田野倉という部落の出です。
20年位前、母と、叔父と一緒に、尋ねたことがありますが、
あまりに山奥で、いかにも、狐狸が出るような所なので、驚き
ました。
冬には、雪が、一階の出口を、塞いでしまうほど、積もる、
豪雪地帯です。
この母方の先祖のことも、わかりません。
ただ一つ、わかっているのは、私のルーツは新潟だ、という
ことなのです。
もしそのルーツを、知ることができたならば、いま自分がこうして
生きているのは、そのご先祖様たちがいたからだ、と実感でき
ます。
何百年も続いている、血のつながりを、実感できたら、人は、
今生きていることに、もっと謙虚になれるのでは、ないでしょうか。
系図作りは、それに気付く、いい機会になるのだと、思います。
2012年02月24日
小さな幸せ二つ
最近感じた、ささやかな、幸せを二つ、書いてみます。
この間、石川で、友人たちと会った時、知り合いの豊浜さんの
畑で育った、野菜をいただきました。
見事なダイコン、春菊、ンスナバー、カンダバー(サツマイモの葉!)
どれも無農薬の、安全野菜です。
石川の329号バイパス沿いには、畑地が広
がり、多くの方が、農園を楽しんでいますが、
豊浜さんの畑も、その一角にありました。
中には、豚舎や牛舎もあります。それだから、石川の街は、
風向きによって、いい匂いが漂うのです・・
春菊は、スーパーに売っているのよりも、色が薄めで、クセもなく、
柔らかでした。味噌汁に入れたら、とても美味しかったです。
ンスナバーは、葉がとても大きくて、立派!
これは、教えてもらったとおりに、サバ缶と一緒に、
ちゃんぷる~(炒め物)にしたら、本当に美味しか
ったです。
カンダバーは芋の葉のことです。沖縄では、葉をジューシー
(オジヤ)にして、いただくのが、定番です。
このカンダバージューシーは、繊維が豊富で、便秘にいい
そうです。
カツオ出汁などで、カンダバーとご飯を炊いて、味噌などで
味をつけた後、卵を落とし、最後にサラダ油など、お好みの
油を、一振り入れるのが、コツだそうです。
この油の一振りがないと、うまくないんだよ、と石川の
方が、言っていました。
Tさんの畑のカンダバーは、赤っぽいのですが、これは紅い
ものカンダバーだから、だそうです。
近くの用水路で、取れたての、島らっきょを、洗っている方が、
いました。
聞くと、この島らっきょ
の束を、明日、近くのスーパーに、1500円で、
売りに行く、と言います。その島らっきょは、
見るからに、美味しそうだったので、友人二人
と私で、500円ずつ出し合い、1500円で買い
ました。
500円で買った、島らっきょは、てんぷらと、ちゃんぷる~、
塩漬けにして、いただきました。
島らっきょは、炒めると、とても美味しいのです。
沖縄では、こんなふうに、知り合いから、取れたて野菜を、いた
だくことが、時々ありますが、とっても嬉しいものです。
こんな時、幸せを感じます。
もう一つは、今年の、お年玉年賀はがきに、当たり、景品を
もらったことです。
当たったといっても、4等ですが・・
最下位だから、せいぜいティッシュペーパーでも、もらえるのかと、あまり期待せずに、郵便局に行ってみると、80円と50円の、お年玉の記念切手を、いただいて、思わず嬉しくなりました。
窓口の女性に、「おめでとうございます」と言われたのも、嬉しかった。
こんな小さなことでも、幸せを感じることが、できるのですね。
大きな幸せに、あたることは、そうそうないので、小さな幸せを、
幾つも味わって、生きていきたいと、思います。
この間、石川で、友人たちと会った時、知り合いの豊浜さんの
畑で育った、野菜をいただきました。
見事なダイコン、春菊、ンスナバー、カンダバー(サツマイモの葉!)
どれも無農薬の、安全野菜です。
石川の329号バイパス沿いには、畑地が広
がり、多くの方が、農園を楽しんでいますが、
豊浜さんの畑も、その一角にありました。
中には、豚舎や牛舎もあります。それだから、石川の街は、
風向きによって、いい匂いが漂うのです・・
春菊は、スーパーに売っているのよりも、色が薄めで、クセもなく、
柔らかでした。味噌汁に入れたら、とても美味しかったです。
これは、教えてもらったとおりに、サバ缶と一緒に、
ちゃんぷる~(炒め物)にしたら、本当に美味しか
ったです。
カンダバーは芋の葉のことです。沖縄では、葉をジューシー
(オジヤ)にして、いただくのが、定番です。
このカンダバージューシーは、繊維が豊富で、便秘にいい
そうです。
カツオ出汁などで、カンダバーとご飯を炊いて、味噌などで
味をつけた後、卵を落とし、最後にサラダ油など、お好みの
油を、一振り入れるのが、コツだそうです。
この油の一振りがないと、うまくないんだよ、と石川の
方が、言っていました。
Tさんの畑のカンダバーは、赤っぽいのですが、これは紅い
ものカンダバーだから、だそうです。
近くの用水路で、取れたての、島らっきょを、洗っている方が、
いました。
の束を、明日、近くのスーパーに、1500円で、
売りに行く、と言います。その島らっきょは、
見るからに、美味しそうだったので、友人二人
と私で、500円ずつ出し合い、1500円で買い
ました。
500円で買った、島らっきょは、てんぷらと、ちゃんぷる~、
塩漬けにして、いただきました。
島らっきょは、炒めると、とても美味しいのです。
沖縄では、こんなふうに、知り合いから、取れたて野菜を、いた
だくことが、時々ありますが、とっても嬉しいものです。
こんな時、幸せを感じます。
もう一つは、今年の、お年玉年賀はがきに、当たり、景品を
もらったことです。
当たったといっても、4等ですが・・
窓口の女性に、「おめでとうございます」と言われたのも、嬉しかった。
こんな小さなことでも、幸せを感じることが、できるのですね。
大きな幸せに、あたることは、そうそうないので、小さな幸せを、
幾つも味わって、生きていきたいと、思います。
2012年02月23日
カミンチュが示唆したこと
読谷村座喜味(ざきみ)の、島袋門中(もんちゅう)の
仲代千咲さんは、カミンチュ(神人)の修行を、しています。
その仲代さんが、カミンチュの師匠の所へ、
「ついたち」の御願に行く、というので、同行しました。
沖縄の主婦たちは、毎月旧暦の「ついたち・じゅうごにち」は、
家のヒヌカン(火の神)、床の間、仏壇、そして神屋のある家は、
神屋を清め、お供えを、新しくして御願します。
昨日は、旧暦二月一日で、「ついたち」に、当たりました。
行き先は、残波岬に近い、読谷村宇座(うざ)にある、
カミンチュ・師匠、徳村京子さんの神屋(かみや)です。
中に入って驚きました。
神屋なので、神様が祀られているのは、当たり前なのですが、祀られている神とウコール(香炉)の多いこと!
ここには、太陽神や、月の神など、様々な神様と、徳村さんのご先祖様が、祀られています。
カミンチュの徳村さんは、明るい姉御肌の女性で、霊力の
高さは、相当だそうです。
今回は、島袋門中の本家、島袋佐枝子さんも一緒でした。
彼女は、本家の人として、ご先祖様たちを、どのように供養して
いくか、その責任を負っています。
まず、ヒヌカンを初め、神々と、徳村さんのご先祖様のウコール
へ、線香を立て、手を合わせます。
徳村さんの元へ通う女性が、火のついた線香の束を、島袋さん
と私に、手渡してくれるのですが、線香はどんどん燃えて、灰は
落ちそうになって、火傷しそうになって、慌てました!
その後、徳村さんのお話を伺いました。
島袋家の仏壇には、四つの位牌と、ウコールがありますが、
これらは、別に神屋を設け、そちらに安置したほうが、いいと
言われています。
それについて徳村さんは、まず一族の立口(たちくち・元祖)に、
どこに神屋を作ってもらいたいか、聞くことが大切、と言います。
遠い昔の、元祖に聞くということは、すなわち、カミンチュやユタに
判事を頼み、ご先祖に、お伺いをたてる、ということです。
さらに、少なくとも3件以上、別々のカミンチュなり、ユタに判事を
頼み、結果をよく吟味した方がいい、ということでした。
なぜなら、生きている人たちには、ご先祖様が、本当に望んで
いることが、わからないから、なのだそうです。
カミンチュやユタに、判事をお願いすると、だいたい一回につき、
3千円から5千円はかかるそうです。
カミンチュ修行中の仲代さんは、一昨年あたりから、サンミン
(急に体調が悪くなるが原因不明)が始まり、これは祖先からの、
メッセージと受け止めて、カミンチュ師匠のところへ、通うことに
なりました。
本家の島袋さんも、サンミンの状態が現われたことから、ご先祖
の供養について、真剣に考え始めた、そうです。
話は仲代さんに、戻ります。
彼女は、自分のチジ(守護神)を知るために、系図を作ることから、
始めることになりました。
系図がなければ、祖先のことが、何もわからないからです。
その系図作りですが、昔のことを調べるのですから、一筋縄では
いかないのが、現状です・・
カミンチュ徳村さんの所を失礼した後、座喜味の門中について、
調べようと、一人、読谷村図書館へ、向かいました。
まず調べるのは、郷土資料です。座喜味の字誌、『史跡乃里・
座喜味』を調べました。
図書館の人が、読谷村市史編集室に、多少資料があると、
教えてくれたので、同じ敷地内にある、市史編集室へ、向か
いました。
市史編集室の方が、出してくれたのは、『沖縄民俗第11号
渡名喜・座喜味部落調査報告』です。
その中で、座喜味・島袋門中について、
「クシマーチネー門中から分かれたといわれる。ウマチーは
6月で、その日、井戸御願もする。清明(シーミー)には首里の
諸見里家や、都屋(とや)の墓、伊良皆(いらみね)の墓、
チナヌンドゥンチを拝む」
と書かれています。
「クシマーチネー門中」とは、座喜味内にある、「久松門中」のこと
でしょうか?
「久松門中」は、宗家の屋号が「後久松」といい、これをうちな~
読みすると、「クシマーチネー」と、読めなくもありませんが、まだ
よくわかりません。
カミンチュの徳村さんによれば、島袋門中は、毛氏(もううじ)・
護佐丸(ごさまる)系統ということなのですが、それが、島袋の
立口と、どう繋がるのか、まだ調査中です。
「クシマーチネー門中からの別れ」が、何かのヒントになれば
いい、と思います。
そして、ここにも「諸見里家」が、出てきました!
島袋門中と、諸見里家のつながりについては、追跡が続いて
います。
歴史を遡って、埋もれた史実の欠片を、拾っていくのは、大変
な作業ですが、これがまた、門中調査の、面白いところなのです。

ちなみに、昨日はまた、RBC(琉球放送)の、取材もありました(^^)
仲代千咲さんは、カミンチュ(神人)の修行を、しています。
その仲代さんが、カミンチュの師匠の所へ、
「ついたち」の御願に行く、というので、同行しました。
沖縄の主婦たちは、毎月旧暦の「ついたち・じゅうごにち」は、
家のヒヌカン(火の神)、床の間、仏壇、そして神屋のある家は、
神屋を清め、お供えを、新しくして御願します。
昨日は、旧暦二月一日で、「ついたち」に、当たりました。
行き先は、残波岬に近い、読谷村宇座(うざ)にある、
カミンチュ・師匠、徳村京子さんの神屋(かみや)です。
中に入って驚きました。
ここには、太陽神や、月の神など、様々な神様と、徳村さんのご先祖様が、祀られています。
カミンチュの徳村さんは、明るい姉御肌の女性で、霊力の
高さは、相当だそうです。
今回は、島袋門中の本家、島袋佐枝子さんも一緒でした。
彼女は、本家の人として、ご先祖様たちを、どのように供養して
いくか、その責任を負っています。
まず、ヒヌカンを初め、神々と、徳村さんのご先祖様のウコール
へ、線香を立て、手を合わせます。
徳村さんの元へ通う女性が、火のついた線香の束を、島袋さん
と私に、手渡してくれるのですが、線香はどんどん燃えて、灰は
落ちそうになって、火傷しそうになって、慌てました!
その後、徳村さんのお話を伺いました。
島袋家の仏壇には、四つの位牌と、ウコールがありますが、
これらは、別に神屋を設け、そちらに安置したほうが、いいと
言われています。
それについて徳村さんは、まず一族の立口(たちくち・元祖)に、
どこに神屋を作ってもらいたいか、聞くことが大切、と言います。
遠い昔の、元祖に聞くということは、すなわち、カミンチュやユタに
判事を頼み、ご先祖に、お伺いをたてる、ということです。
さらに、少なくとも3件以上、別々のカミンチュなり、ユタに判事を
頼み、結果をよく吟味した方がいい、ということでした。
なぜなら、生きている人たちには、ご先祖様が、本当に望んで
いることが、わからないから、なのだそうです。
カミンチュやユタに、判事をお願いすると、だいたい一回につき、
3千円から5千円はかかるそうです。
カミンチュ修行中の仲代さんは、一昨年あたりから、サンミン
(急に体調が悪くなるが原因不明)が始まり、これは祖先からの、
メッセージと受け止めて、カミンチュ師匠のところへ、通うことに
なりました。
本家の島袋さんも、サンミンの状態が現われたことから、ご先祖
の供養について、真剣に考え始めた、そうです。
話は仲代さんに、戻ります。
彼女は、自分のチジ(守護神)を知るために、系図を作ることから、
始めることになりました。
系図がなければ、祖先のことが、何もわからないからです。
その系図作りですが、昔のことを調べるのですから、一筋縄では
いかないのが、現状です・・
カミンチュ徳村さんの所を失礼した後、座喜味の門中について、
調べようと、一人、読谷村図書館へ、向かいました。
まず調べるのは、郷土資料です。座喜味の字誌、『史跡乃里・
座喜味』を調べました。
図書館の人が、読谷村市史編集室に、多少資料があると、
教えてくれたので、同じ敷地内にある、市史編集室へ、向か
いました。
市史編集室の方が、出してくれたのは、『沖縄民俗第11号
渡名喜・座喜味部落調査報告』です。
その中で、座喜味・島袋門中について、
「クシマーチネー門中から分かれたといわれる。ウマチーは
6月で、その日、井戸御願もする。清明(シーミー)には首里の
諸見里家や、都屋(とや)の墓、伊良皆(いらみね)の墓、
チナヌンドゥンチを拝む」
と書かれています。
「クシマーチネー門中」とは、座喜味内にある、「久松門中」のこと
でしょうか?
「久松門中」は、宗家の屋号が「後久松」といい、これをうちな~
読みすると、「クシマーチネー」と、読めなくもありませんが、まだ
よくわかりません。
カミンチュの徳村さんによれば、島袋門中は、毛氏(もううじ)・
護佐丸(ごさまる)系統ということなのですが、それが、島袋の
立口と、どう繋がるのか、まだ調査中です。
「クシマーチネー門中からの別れ」が、何かのヒントになれば
いい、と思います。
そして、ここにも「諸見里家」が、出てきました!
島袋門中と、諸見里家のつながりについては、追跡が続いて
います。
歴史を遡って、埋もれた史実の欠片を、拾っていくのは、大変
な作業ですが、これがまた、門中調査の、面白いところなのです。
ちなみに、昨日はまた、RBC(琉球放送)の、取材もありました(^^)
2012年02月21日
名護の守り神・名護城(ナングスク)
灰色の空に、閉ざされる日の多い、沖縄の冬。
その冬の楽しみといえば、私の場合、桜めぐりをすることです。

沖縄の桜は、濃いピンクが鮮やかで、花は小ぶりで、とても可憐です。
この淡紅色の花が、鉛色の空によく映える、と思うのは、私だけでしょうか。
桜開花の知らせを聞くと、ほぼ毎週のように、やんばるへ、
桜を見に行きます。
まず八重岳で、山と溶け合う桜を堪能した後は、名護城
(ナングスク)へ行くのが、常です。

このナングスクの桜は、大正から昭和の初めにかけ、地元の城(ぐすく)青年団や有志が、桜の成木を、幸地(こうち)川沿いに、移植したことから、始まるのだそうです。
昭和10年代には、桜は、ナングスク周辺の谷間に自生して、
人の目を楽しませるようになりました。
そして、昭和38年に、第一回目が開かれた、ナングスク
桜祭りは、今年で50回目を、迎えました。
桜祭りが開かれる週末は、幸地川沿いの桜並木に、出店
がびっしり並び、地元の家族連れ、観光客、たくさんの人
が繰り出します。
オリオンビール工場がある名護では、工場で作られた、
新鮮なビールが、沖縄のどこよりも早く出回るので、
「名護のビールはおいしい」、と定評があります。
私が好きなのは、夜です。
参道から、中腹の拝殿にかけ、オリオンビールの提灯の
灯りが、闇夜に浮かび、祭りの風情を添えます。

参道を下って、ヒンプンガジュマル(大きな老ガジュマルの木)
の所まで来ると、東江(あがりえ)の向こうにある、銭が森(じ
んがもり)に、「祈」の光文字が、名護の街を見おろしている
風景を見ると、つくづく、名護はいい街だなと、思います。
このナングスクが、歴史的にどうだったかといえば、14
世紀の初め頃は、名護按司(あじ)の居城でした。
按司とは、琉球国王家の分家のことです。
名護按司は、山上に城を構え、名護間切(まぎり)を治め
ていました。
間切とは、王国時代の行政区分、今で言えば、市町村に
あたります。
ナングスクは、標高107.9メートルの、小高い山です。
頂上は平らで、北側と南側は急斜面をえがき、東側、西側
は緩い傾斜になって、山そのものが、天然の要塞と、なって
います。
その頃、按司が支配する、住民たちは、周辺の山の上で、
生活していました。
しかし、15世紀に入り、第二尚氏・尚真王の時代、全国の
按司は、首里に集められることになり、名護按司も、首里
に引き上げていきました。
名護按司が支配していた、山の上の民たちも、不便な山
の生活を捨て、平地へ降りていきました。
今ある名護の村落は、こうして作られたと、言われています。
ナングスクには、もう一つ、別の顔があります。
名護湾沿岸の、村の人々にとって、ナングスクは、御嶽
として、信仰の対象でした。
中腹の西側斜面には、ヌンドゥンチ(ノロ屋敷)、
根神屋(ニガミヤー)、内神屋(ウチガミヤー)、
栫神(プスミヤー)、そしてイジグチ(神酒を造る
旧家)など、ナングスクの神に仕える、神役たち
の屋敷があり、神役たちは、家族と共に、山の上の屋敷で、
暮らしていました。
山腹の拝殿と神殿から、山頂に至る道が、二つあります。
一つは、ヌンドゥンチ、栫神(プスミヤー)を抜けた、頂上に続く
石段の道で、イキガミチ(男道)です。
頂上で行われる祭祀に、参加する一般の人たちが、通る
道です。
もう一つは、拝殿・神殿を右に上がるカミミチ(神道)で、頂上の神アシャギ(神を招いて祭事を行う所)で祭祀をする、女性神役たちが、使う道です。
カミミチ一帯は、鬱蒼と繁るフバが、日を遮り、昼でも薄暗く、神秘的な場所です。
途中にある、フバヌシチャという、フバの古木を中心に、
山の斜面一帯に、縄が張られた内側を、マキウチと言い、
伝説では、ナングスクの神が、最初に降りたったフバの樹が、
この場所で、ナングスクで、最も神聖な場所だと、言われて
います。

ちなみに、このマキウチは、男子禁制の場所です。
フバヌシチャの樹の根元に、ウコール(香炉)が置かれていることから、ここが拝所であることが、わかります。
フバとは、ヤシ科の植物で、御嶽や、神アシャギによく
植えられ、祭祀に、大切な意味を持っていたようです。
ナングスクの頂上は、平坦地で、周囲を松林に、囲まれ
た広場に、なっています。
ここが、ティンチヂ(天頂)で、かつては、この場所に、ヌルを
中心に、神役たちが揃い、祭祀が厳かに、執り行われていました。

旧暦七月のウンギャミ祭(海神祭)を終えた、神役たち
が、海の神に、祈りを捧げるため、松明を掲げて、山を
降りる様は、恩納(おんな)の部落から、見ている人た
ちには、まるで、竜が山を降りてくるように、見えたそ
うです。
神役たちは、ナングスクから、先人たちが、平地に降り
て行った後も、山中に留まり、ナングスクの神に、仕え
てきました。
しかし、昭和に入って、神役の後継者問題や、電気も
水道もない山の不便な生活などの事情で、次第に、
神役たちも、山を降りていきました。
戦後になって、ヌルと根神屋(ニガミヤー)が山を降りた
後は、神役は、誰も山に残っていません。
代わりにあるのは、仏壇と、ヒヌカン(火の神)だけが
祀られた、コンクリートの建物だけが、拝所として、
残っているだけなのです。
時代と共に、街も生活も変わっていきましたが、
ナングスクは、太古の昔からそこにあり、今もそこで、名護の人々を、見守っています。
その冬の楽しみといえば、私の場合、桜めぐりをすることです。
沖縄の桜は、濃いピンクが鮮やかで、花は小ぶりで、とても可憐です。
この淡紅色の花が、鉛色の空によく映える、と思うのは、私だけでしょうか。
桜開花の知らせを聞くと、ほぼ毎週のように、やんばるへ、
桜を見に行きます。
まず八重岳で、山と溶け合う桜を堪能した後は、名護城
(ナングスク)へ行くのが、常です。
このナングスクの桜は、大正から昭和の初めにかけ、地元の城(ぐすく)青年団や有志が、桜の成木を、幸地(こうち)川沿いに、移植したことから、始まるのだそうです。
昭和10年代には、桜は、ナングスク周辺の谷間に自生して、
人の目を楽しませるようになりました。
そして、昭和38年に、第一回目が開かれた、ナングスク
桜祭りは、今年で50回目を、迎えました。
桜祭りが開かれる週末は、幸地川沿いの桜並木に、出店
がびっしり並び、地元の家族連れ、観光客、たくさんの人
が繰り出します。
オリオンビール工場がある名護では、工場で作られた、
新鮮なビールが、沖縄のどこよりも早く出回るので、
「名護のビールはおいしい」、と定評があります。
私が好きなのは、夜です。
参道から、中腹の拝殿にかけ、オリオンビールの提灯の
灯りが、闇夜に浮かび、祭りの風情を添えます。
参道を下って、ヒンプンガジュマル(大きな老ガジュマルの木)
の所まで来ると、東江(あがりえ)の向こうにある、銭が森(じ
んがもり)に、「祈」の光文字が、名護の街を見おろしている
風景を見ると、つくづく、名護はいい街だなと、思います。
このナングスクが、歴史的にどうだったかといえば、14
世紀の初め頃は、名護按司(あじ)の居城でした。
按司とは、琉球国王家の分家のことです。
名護按司は、山上に城を構え、名護間切(まぎり)を治め
ていました。
間切とは、王国時代の行政区分、今で言えば、市町村に
あたります。
ナングスクは、標高107.9メートルの、小高い山です。
頂上は平らで、北側と南側は急斜面をえがき、東側、西側
は緩い傾斜になって、山そのものが、天然の要塞と、なって
います。
その頃、按司が支配する、住民たちは、周辺の山の上で、
生活していました。
しかし、15世紀に入り、第二尚氏・尚真王の時代、全国の
按司は、首里に集められることになり、名護按司も、首里
に引き上げていきました。
名護按司が支配していた、山の上の民たちも、不便な山
の生活を捨て、平地へ降りていきました。
今ある名護の村落は、こうして作られたと、言われています。
ナングスクには、もう一つ、別の顔があります。
名護湾沿岸の、村の人々にとって、ナングスクは、御嶽
として、信仰の対象でした。
根神屋(ニガミヤー)、内神屋(ウチガミヤー)、
栫神(プスミヤー)、そしてイジグチ(神酒を造る
旧家)など、ナングスクの神に仕える、神役たち
の屋敷があり、神役たちは、家族と共に、山の上の屋敷で、
暮らしていました。
山腹の拝殿と神殿から、山頂に至る道が、二つあります。
一つは、ヌンドゥンチ、栫神(プスミヤー)を抜けた、頂上に続く
石段の道で、イキガミチ(男道)です。
頂上で行われる祭祀に、参加する一般の人たちが、通る
道です。
カミミチ一帯は、鬱蒼と繁るフバが、日を遮り、昼でも薄暗く、神秘的な場所です。
途中にある、フバヌシチャという、フバの古木を中心に、
山の斜面一帯に、縄が張られた内側を、マキウチと言い、
伝説では、ナングスクの神が、最初に降りたったフバの樹が、
この場所で、ナングスクで、最も神聖な場所だと、言われて
います。
ちなみに、このマキウチは、男子禁制の場所です。
フバヌシチャの樹の根元に、ウコール(香炉)が置かれていることから、ここが拝所であることが、わかります。
フバとは、ヤシ科の植物で、御嶽や、神アシャギによく
植えられ、祭祀に、大切な意味を持っていたようです。
ナングスクの頂上は、平坦地で、周囲を松林に、囲まれ
た広場に、なっています。
ここが、ティンチヂ(天頂)で、かつては、この場所に、ヌルを
中心に、神役たちが揃い、祭祀が厳かに、執り行われていました。
旧暦七月のウンギャミ祭(海神祭)を終えた、神役たち
が、海の神に、祈りを捧げるため、松明を掲げて、山を
降りる様は、恩納(おんな)の部落から、見ている人た
ちには、まるで、竜が山を降りてくるように、見えたそ
うです。
神役たちは、ナングスクから、先人たちが、平地に降り
て行った後も、山中に留まり、ナングスクの神に、仕え
てきました。
しかし、昭和に入って、神役の後継者問題や、電気も
水道もない山の不便な生活などの事情で、次第に、
神役たちも、山を降りていきました。
戦後になって、ヌルと根神屋(ニガミヤー)が山を降りた
後は、神役は、誰も山に残っていません。
代わりにあるのは、仏壇と、ヒヌカン(火の神)だけが
祀られた、コンクリートの建物だけが、拝所として、
残っているだけなのです。
ナングスクは、太古の昔からそこにあり、今もそこで、名護の人々を、見守っています。
2012年02月18日
なぜ家系図を作るのか
最近、20~30代の若い層から、家系図について
問い合わせが、増えていることは、前に書きましたが、
近所の焼鳥屋の若大将も、家系図に興味を持っている
というので、話を聞きに行って来ました。
大将が言うには、店のお客さんと、よく家系図の話しが
出るそうです。
系図作りに、興味を持っている人は、けっこういるそうで
すが、皆さんどうやって作るのか、わからないと言います。
そこで、私が門中のエピソードを手がけた、第1号「崎間門中家系図」を見せながら、系図作成のいろはを簡単に、説明しました。
門中は、父系の血筋を中心に、結ばれて
います。
それゆえに、門中の男子の名に、共通の名乗頭(なのり
がしら)があるかを調べ、その家が、士族か平民か見分
けます。
名乗頭とは、名乗の頭字のことです。
例えば、諸見里門中ならば、一族の男子の名に、
「安英」のように、共通の「安」が付きます。
名乗り頭が付いていれば、その門中は、琉球王府の
時代、先祖は士族だった、ということがわかるのです。
ちなみに、わが知名家の名乗頭は、「定」です。
見知らぬ方であっても、姓が知名で、名前に「定」が付
いていれば、「同じ門中だね~」とわかるのです。
また、その頭字から、氏名(うじめい)も、分かります。
察度(さっと)王朝の時代(1350~1395)、南支那の
福州から、那覇久米村に移住した、中国人たちは、氏を
持っていましたが、首里・那覇の士族たちは、それに
倣って、氏を作ったようです。
すべての士族が、氏を持つようになったのは、1689年、
王府が系図座を設け、各士族から、「家譜」」を提出させ、
姓を各士に、与えるようになってからだと、言われてい
ます。
「家譜」とは、家系図のことです。
たとえば、姓が諸見里で、名乗頭が「安」の場合は、
馮(ひょう)氏になります。
琉球王府の印が押された「家譜」が、残っているかどうかは、
那覇市歴史博物館が発行している、首里・那覇の士族の
「氏集」などから、調べることができます。
しかし、過酷な地上戦を経た沖縄では、位牌や「家譜」
など、先祖の記録が、戦禍で失われる例は、とても多
いと言われています。
もし「家譜」があれば、その家の先祖に、どういう人が
いて、王府の中で、どのような役職についていたかなど、
先祖の記録の、詳しいことが、わかるのです。
以上は、士族の場合ですが、そうでない場合は、無系
(系図を持たない者)、平民になります。
平民の場合、「家譜」はありませんから、明治時代になっ
てからできた、戸籍を調べます。
家系図を作るということは、自分たちのルーツを、探る
だけでなく、自らの門中に対する、理解が深まることに、
なります。
たとえば、ルーツは同じ祖先を持っているのに、長い年月
の間に、少しずつ離れ、親戚同士であってもわからない、
という話しは、沖縄でも珍しくありませんが、家系図を作る
ことによって、一族の繋がりは、一目で分かるようになり
ます。
核家族化して、親戚づきあいも、薄くなりつつある現在は、
なおさら、横の連帯感を、意識することが、大切なのでは
ないでしょうか。
焼鳥屋の大将と話していて、そんなふうに、思いました。
*家系図作成についてのお問い合わせは、専門の球陽出版
に、お尋ねください。
球陽出版 tel/fax 098-871-9580 http://kyuyou-shuppan.com/
問い合わせが、増えていることは、前に書きましたが、
近所の焼鳥屋の若大将も、家系図に興味を持っている
というので、話を聞きに行って来ました。
大将が言うには、店のお客さんと、よく家系図の話しが
出るそうです。
系図作りに、興味を持っている人は、けっこういるそうで
すが、皆さんどうやって作るのか、わからないと言います。
門中は、父系の血筋を中心に、結ばれて
います。
それゆえに、門中の男子の名に、共通の名乗頭(なのり
がしら)があるかを調べ、その家が、士族か平民か見分
けます。
名乗頭とは、名乗の頭字のことです。
例えば、諸見里門中ならば、一族の男子の名に、
「安英」のように、共通の「安」が付きます。
名乗り頭が付いていれば、その門中は、琉球王府の
時代、先祖は士族だった、ということがわかるのです。
ちなみに、わが知名家の名乗頭は、「定」です。
見知らぬ方であっても、姓が知名で、名前に「定」が付
いていれば、「同じ門中だね~」とわかるのです。
また、その頭字から、氏名(うじめい)も、分かります。
察度(さっと)王朝の時代(1350~1395)、南支那の
福州から、那覇久米村に移住した、中国人たちは、氏を
持っていましたが、首里・那覇の士族たちは、それに
倣って、氏を作ったようです。
すべての士族が、氏を持つようになったのは、1689年、
王府が系図座を設け、各士族から、「家譜」」を提出させ、
姓を各士に、与えるようになってからだと、言われてい
ます。
「家譜」とは、家系図のことです。
たとえば、姓が諸見里で、名乗頭が「安」の場合は、
馮(ひょう)氏になります。
琉球王府の印が押された「家譜」が、残っているかどうかは、
那覇市歴史博物館が発行している、首里・那覇の士族の
「氏集」などから、調べることができます。
しかし、過酷な地上戦を経た沖縄では、位牌や「家譜」
など、先祖の記録が、戦禍で失われる例は、とても多
いと言われています。
もし「家譜」があれば、その家の先祖に、どういう人が
いて、王府の中で、どのような役職についていたかなど、
先祖の記録の、詳しいことが、わかるのです。
以上は、士族の場合ですが、そうでない場合は、無系
(系図を持たない者)、平民になります。
平民の場合、「家譜」はありませんから、明治時代になっ
てからできた、戸籍を調べます。
家系図を作るということは、自分たちのルーツを、探る
だけでなく、自らの門中に対する、理解が深まることに、
なります。
たとえば、ルーツは同じ祖先を持っているのに、長い年月
の間に、少しずつ離れ、親戚同士であってもわからない、
という話しは、沖縄でも珍しくありませんが、家系図を作る
ことによって、一族の繋がりは、一目で分かるようになり
ます。
核家族化して、親戚づきあいも、薄くなりつつある現在は、
なおさら、横の連帯感を、意識することが、大切なのでは
ないでしょうか。
焼鳥屋の大将と話していて、そんなふうに、思いました。
*家系図作成についてのお問い合わせは、専門の球陽出版
に、お尋ねください。
球陽出版 tel/fax 098-871-9580 http://kyuyou-shuppan.com/
2012年02月17日
二つの門中の鍵を握る大里王子
昨日は、読谷村座喜味(ざきみ)の、島袋門中の調査に、参加しました。
以前、現在調査中の諸見里家と、読谷村座喜味の島袋家が、同じ門中だという
ことがわかり、その偶然の一致に驚いた、ということを書きましたが、昨日伺った
のは、その島袋さんのお宅です。
読谷村座喜味は、周りに田畑や木立が広がる、静かで、とてもいい所です。
近くには、2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の資産の一つとして、
世界遺産に登録された、座喜味城跡があります。
このグスクは、15世紀の初め頃、名築城家の誉れ高い、読谷山按司護佐丸
(よみたんざんあじごさまる)によって築かれました。
按司(あじ)とは、琉球王朝時代の、地方の支配者で、王家の分家です。
座喜味城跡の外壁は、ゆるやかで、美しい曲線をえがいているのが、特徴です。
実はこの日、RBC(琉球朝日放送)が、島袋門中調査の取材に、訪れました。

最近、球陽出版に系図の依頼、問い合わせに、20~30代の、若い人が増えている
のですが、そこへ目をつけたRBC報道製作部から、取材依頼がありました。
島袋門中の依頼人は、30代の若い女性なので、RBCの取材をお願いしたのでした。

当日は、近所に住んでいる、門中の歴史に詳しい方が
4人、集まって下さりました。
90歳のHさんは、とてもお元気で、杖をついて、歩いていらっしゃいました。
島袋本家の仏壇は、四つの位牌と、ウコール(香炉)が、祀られていて、県内に散らばる
門中の人が、やんばる(北部)などからも、健康願いの拝みに、ユタを連れて、来ることも
あるそうです。
島袋家の先祖に関する資料は、長い間、仏壇の下の引き出しに仕舞わ
れ、人目に触れられることは、ありませんでした。
それが開けられたのは、2年前です。中からは、古い手紙や写真、門中の祖先
供養の記録など、様々な資料が、見つかりました。
その資料と、門中の人の話からわかったことは、島袋門中の元家(ムトゥヤー・総本家)は、
那覇古島(ふるしま)の、諸見里家らしい、ということです。
これは、諸見里門中を調べている、私たちにとって、意外なことでした。
諸見里門中は、琉球王朝、第二尚氏次代の、第三代国王・尚真王の二男、大里王子
の子孫であるという、言い伝えがあるのですが、この島袋門中も、大里王子と関連が
あるらしいのです。
年代は不詳ですが、大里王子は、首里城を追われ、恩納村(おんなそん)山田グスクへ、
逃れていたことがあります。
後に首里へ帰る道すがら、王子は読谷村座喜味の島袋屋(しまぶくやー・屋号)に立ち
寄り、しばらく世話になりました。
そうするうちに、そこの娘と懇ろになり、子どもが生まれるのですが、その子孫が、
今も座喜味に住んでいると、門中の歴史に詳しい人から聞いていたのですが、島袋家
こそが、大里王子が立ち寄った、しまぶくやーなのかと思いました。
しかし、よく聞いてみると、座喜味には津覇(つは)家という、同じ門中の家があり、古の昔、
大里王子が立ち寄ったのは、どうもこちらの家の方、らしいのです。
しかし両家は、親戚同士ということなので、やはり、島袋家も、大里王子に関連があり
そうです。
それに、仏壇の下から出てきた資料の中には、大里王子に関する記述もあったので、
やはり島袋家と、大里王子の関連は、あったと思います。
諸見里門中と、座喜味の島袋家が、関連しているらしいことは、間違いなさそうですが、
それを繋ぐ鍵は、やはり「大里王子」です。
この王子については、生年、母親、没年も不明です。
父は名君の尚真王で、7人の男兄弟のうち、長男・維衡(いこう)と、次男・朝栄(ちょうえい)
こと大里王子は、父王から疎まれ、首里にある、第二尚氏王朝の墓・玉陵(たまうどぅん)
に葬られることを、許されませんでした。
それには、壮絶な、王位継承に関する、骨肉の争いが絡んでいた、らしいのです。
歴史書では、大里王子の家系は、王子一代で、途絶えていますが、公になっていない
だけで、その実、王子に妻子があったとしても、不思議はありません。
なんと言っても、諸見里門中、島袋屋それぞれが、大里王子の子孫であると、伝えて
いるのですから、それはほぼ、間違いないのでは、ないでしょうか。
那覇市古島の、諸見里宗家近くの、ムイ(森)には、大里王子の墓が、あるそうです。
歴史の表舞台で、活躍できなかった大里王子が、諸見里家、島袋家それぞれの
門中に、どんな繋がりがあったのか、可能なかぎり、迫ってみたいと思っています。
RBCの取材は、まだ続くそうで、放送は、3月頃らしいです。放映が楽しみです。
以前、現在調査中の諸見里家と、読谷村座喜味の島袋家が、同じ門中だという
ことがわかり、その偶然の一致に驚いた、ということを書きましたが、昨日伺った
のは、その島袋さんのお宅です。
読谷村座喜味は、周りに田畑や木立が広がる、静かで、とてもいい所です。
近くには、2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の資産の一つとして、
世界遺産に登録された、座喜味城跡があります。
このグスクは、15世紀の初め頃、名築城家の誉れ高い、読谷山按司護佐丸
(よみたんざんあじごさまる)によって築かれました。
按司(あじ)とは、琉球王朝時代の、地方の支配者で、王家の分家です。
座喜味城跡の外壁は、ゆるやかで、美しい曲線をえがいているのが、特徴です。
実はこの日、RBC(琉球朝日放送)が、島袋門中調査の取材に、訪れました。
最近、球陽出版に系図の依頼、問い合わせに、20~30代の、若い人が増えている
のですが、そこへ目をつけたRBC報道製作部から、取材依頼がありました。
島袋門中の依頼人は、30代の若い女性なので、RBCの取材をお願いしたのでした。
当日は、近所に住んでいる、門中の歴史に詳しい方が
4人、集まって下さりました。
90歳のHさんは、とてもお元気で、杖をついて、歩いていらっしゃいました。
島袋本家の仏壇は、四つの位牌と、ウコール(香炉)が、祀られていて、県内に散らばる
門中の人が、やんばる(北部)などからも、健康願いの拝みに、ユタを連れて、来ることも
あるそうです。
島袋家の先祖に関する資料は、長い間、仏壇の下の引き出しに仕舞わ
れ、人目に触れられることは、ありませんでした。
それが開けられたのは、2年前です。中からは、古い手紙や写真、門中の祖先
供養の記録など、様々な資料が、見つかりました。
その資料と、門中の人の話からわかったことは、島袋門中の元家(ムトゥヤー・総本家)は、
那覇古島(ふるしま)の、諸見里家らしい、ということです。
これは、諸見里門中を調べている、私たちにとって、意外なことでした。
諸見里門中は、琉球王朝、第二尚氏次代の、第三代国王・尚真王の二男、大里王子
の子孫であるという、言い伝えがあるのですが、この島袋門中も、大里王子と関連が
あるらしいのです。
年代は不詳ですが、大里王子は、首里城を追われ、恩納村(おんなそん)山田グスクへ、
逃れていたことがあります。
後に首里へ帰る道すがら、王子は読谷村座喜味の島袋屋(しまぶくやー・屋号)に立ち
寄り、しばらく世話になりました。
そうするうちに、そこの娘と懇ろになり、子どもが生まれるのですが、その子孫が、
今も座喜味に住んでいると、門中の歴史に詳しい人から聞いていたのですが、島袋家
こそが、大里王子が立ち寄った、しまぶくやーなのかと思いました。
しかし、よく聞いてみると、座喜味には津覇(つは)家という、同じ門中の家があり、古の昔、
大里王子が立ち寄ったのは、どうもこちらの家の方、らしいのです。
しかし両家は、親戚同士ということなので、やはり、島袋家も、大里王子に関連があり
そうです。
それに、仏壇の下から出てきた資料の中には、大里王子に関する記述もあったので、
やはり島袋家と、大里王子の関連は、あったと思います。
諸見里門中と、座喜味の島袋家が、関連しているらしいことは、間違いなさそうですが、
それを繋ぐ鍵は、やはり「大里王子」です。
この王子については、生年、母親、没年も不明です。
父は名君の尚真王で、7人の男兄弟のうち、長男・維衡(いこう)と、次男・朝栄(ちょうえい)
こと大里王子は、父王から疎まれ、首里にある、第二尚氏王朝の墓・玉陵(たまうどぅん)
に葬られることを、許されませんでした。
それには、壮絶な、王位継承に関する、骨肉の争いが絡んでいた、らしいのです。
歴史書では、大里王子の家系は、王子一代で、途絶えていますが、公になっていない
だけで、その実、王子に妻子があったとしても、不思議はありません。
なんと言っても、諸見里門中、島袋屋それぞれが、大里王子の子孫であると、伝えて
いるのですから、それはほぼ、間違いないのでは、ないでしょうか。
那覇市古島の、諸見里宗家近くの、ムイ(森)には、大里王子の墓が、あるそうです。
歴史の表舞台で、活躍できなかった大里王子が、諸見里家、島袋家それぞれの
門中に、どんな繋がりがあったのか、可能なかぎり、迫ってみたいと思っています。
RBCの取材は、まだ続くそうで、放送は、3月頃らしいです。放映が楽しみです。
2012年02月12日
沖縄国際洋蘭博覧会
本部・海洋博公園内の、熱帯ドリームセンターに、洋蘭の展示会を、見に行ってきました。
沖縄国際洋蘭博覧会は、今年で26回目を迎え、国内外から、1万点以上の作品が、
出展されています。

昔から洋蘭が大好きでした。
東京にいた頃、デンファーレを買う時、沖縄産が欲しくても、値段が張るので、タイなどの外国産で、我慢していました。
県産のデンファーレは、外国産より、小ぶりで愛らしいのです。
東京から沖縄へ到着すると、空港で、まず出迎えてくれたのが、ロビーに
飾られていた、デンファーレなど、洋蘭の花々です。
空港の可憐な洋蘭と、湿り気を帯びた暖かい空気に包まれると、「沖縄に来た!」
という、喜びを感じたものです。
さて、洋蘭展ですが、一歩会場に足を踏み入れた瞬間、色様々な、華やかな、洋蘭の世界に、
引き込まれてしまいました。
さすが、全国から出展されたというほどだけあり、どれも素晴らしい、作品ばかりです。
展示も趣向を凝らし、それぞれの洋蘭が溶け合い、熱帯的で、華麗な雰囲気を、
醸し出しています。

あまりの素晴らしさに、ため息がでました。あたりには、
とてもよい香りが、漂っています。
赤い蘭の、燃えるような赤い色、夜の妖精を思わせる、
蘭の紫の色など、とても写真に撮りつくすことなど、
できません。
微笑ましかったのは、やんばるの小学生たちの作品です。

蘭の栽培は、難しいと聞いていますが、みんな上手に蘭を育てているのに、感心しました。
展示会の終結に、審査の結果が、展示されていました。内閣総理大臣賞、沖縄県知事賞など、
いくつもの受賞を見学、丹精され尽くした洋蘭の受賞作は、見事でした。
でも私にとっての一番は、なんといってもナゴランです。

以前沖縄に旅行に来た時、やんばるの農家を、訪ねたことがありました。
その時、ナゴランの鉢をいただいて感激し、東京に持って帰りました。
スミレの花にも似た、可憐なナゴランの花は、ふくいくたる香りがします。
大事に育てたつもりだったのですが、しばらくすると、ナゴランは、枯れてしまいました。
丹精が足りなかったのか、東京の空気が合わなかったのか・・とても残念だったことを、思い出します。
会場には、オーキッドコンサートも開かれていて、美しい蘭を見ながら、楽の音を聞くという、洒落た趣向です。

結局、蘭展だけでなく、
常設の亜熱帯植物を
夢中で見学している
うちに、3時間もたって
しまい、気がついたとき
には、ヘトヘトになって
いました。
海洋博公園といえば、
美ら海(ちゅらうみ)
水族館など、海洋生物が
有名ですが、熱帯ドリーム
センターも、見ごたえ充分
です。
熱帯の色鮮やかな花や、濃いグリーンのたくましい植物は、疲れた心をリフレッシュして
くれると、思いました。
海洋博公園の前に広がる、青い海原と、その向こうの、伊江島を見るだけでも、来た価値が
あると思わせる、風景です。
沖縄国際洋蘭博覧会は、今年で26回目を迎え、国内外から、1万点以上の作品が、
出展されています。
昔から洋蘭が大好きでした。
東京にいた頃、デンファーレを買う時、沖縄産が欲しくても、値段が張るので、タイなどの外国産で、我慢していました。
県産のデンファーレは、外国産より、小ぶりで愛らしいのです。
東京から沖縄へ到着すると、空港で、まず出迎えてくれたのが、ロビーに
飾られていた、デンファーレなど、洋蘭の花々です。
空港の可憐な洋蘭と、湿り気を帯びた暖かい空気に包まれると、「沖縄に来た!」
という、喜びを感じたものです。
さて、洋蘭展ですが、一歩会場に足を踏み入れた瞬間、色様々な、華やかな、洋蘭の世界に、
引き込まれてしまいました。
さすが、全国から出展されたというほどだけあり、どれも素晴らしい、作品ばかりです。
展示も趣向を凝らし、それぞれの洋蘭が溶け合い、熱帯的で、華麗な雰囲気を、
醸し出しています。
あまりの素晴らしさに、ため息がでました。あたりには、
とてもよい香りが、漂っています。
赤い蘭の、燃えるような赤い色、夜の妖精を思わせる、
蘭の紫の色など、とても写真に撮りつくすことなど、
できません。
微笑ましかったのは、やんばるの小学生たちの作品です。
蘭の栽培は、難しいと聞いていますが、みんな上手に蘭を育てているのに、感心しました。
展示会の終結に、審査の結果が、展示されていました。内閣総理大臣賞、沖縄県知事賞など、
いくつもの受賞を見学、丹精され尽くした洋蘭の受賞作は、見事でした。
でも私にとっての一番は、なんといってもナゴランです。
以前沖縄に旅行に来た時、やんばるの農家を、訪ねたことがありました。
その時、ナゴランの鉢をいただいて感激し、東京に持って帰りました。
スミレの花にも似た、可憐なナゴランの花は、ふくいくたる香りがします。
大事に育てたつもりだったのですが、しばらくすると、ナゴランは、枯れてしまいました。
丹精が足りなかったのか、東京の空気が合わなかったのか・・とても残念だったことを、思い出します。
会場には、オーキッドコンサートも開かれていて、美しい蘭を見ながら、楽の音を聞くという、洒落た趣向です。
結局、蘭展だけでなく、
常設の亜熱帯植物を
夢中で見学している
うちに、3時間もたって
しまい、気がついたとき
には、ヘトヘトになって
いました。
海洋博公園といえば、
美ら海(ちゅらうみ)
水族館など、海洋生物が
有名ですが、熱帯ドリーム
センターも、見ごたえ充分
です。
熱帯の色鮮やかな花や、濃いグリーンのたくましい植物は、疲れた心をリフレッシュして
くれると、思いました。
海洋博公園の前に広がる、青い海原と、その向こうの、伊江島を見るだけでも、来た価値が
あると思わせる、風景です。
2012年02月08日
ジュウルクニチー(十六日祭)
今日、旧暦1月16日は、「グソー(あの世)の正月」です。
旧暦1月14日・ソーグヮーチグヮー(小正月)が過ぎ、翌15日には、神様が
おいでになる、神聖な正月期間は終わり、正月行事は終わります。
そして16日、ようやく墓参りが許され、先祖を祭る日が、「グソーの正月」です。
この日は、お墓参りをして、重箱料理をお供えし、ウチカビ(あの世のお金)を
焼いて、祖先の供養するところ、家庭の仏壇を拝むところなど、地域によって
やり方は異なります。
宮古・八重山などの離島では、清明祭より、ジュウルクニチーを、盛大に行う
ところもあります。そのために親類縁者が集い、多くの人が帰省します。
離島出身でも、故郷に帰れない場合、那覇港のミーグスク(三重城)で、
ごちそうを広げ、故郷のお墓へ向けて、オトーシ(遥拝)する光景は、
この時期の風物詩です。
一般的に、首里に近い場所ほど、清明祭が重視され、首里から遠い所
(本島北部や離島など)ほど、ジュウルクニチーが、盛んなそうです。
我が家は、夫が名護出身なので、どちらかと言えば、やんばる式に、
行っているように思います。
今日は、ミージュウルクニチー(新十六日祭)を迎えた、那覇の親類があり、
お線香をあげに、行ってきました。
ミーサ(1年以内に亡くなった人)のあった家では、墓にご馳走を供え、
その後、焼香に訪れる、親族や知人を迎えるのです。
我が家も仏壇があるので、ジュウルクニチーをするために、急いで帰宅。
仏壇に新しい花を生け、お茶、果物、菓子、夕飯をお供えして、線香をつけて
手を合わせます。
我が家はミーサではないので、重箱料理はお供えせず、中身汁を
お供えしました。しかし作る時間がなかったので、オキハムの
インスタントで、勘弁してもらいました^_^;
これでも、結構おいしいです。
あの世の正月を祝うとは、祖先崇拝の地、ウチナーならではの、
行事だと思います。
清明祭、お盆、そしてこの、ジュウルクニチー、ご先祖様が身近に感じ
られる、これらの日が、私は好きです。
旧暦1月14日・ソーグヮーチグヮー(小正月)が過ぎ、翌15日には、神様が
おいでになる、神聖な正月期間は終わり、正月行事は終わります。
そして16日、ようやく墓参りが許され、先祖を祭る日が、「グソーの正月」です。
この日は、お墓参りをして、重箱料理をお供えし、ウチカビ(あの世のお金)を
焼いて、祖先の供養するところ、家庭の仏壇を拝むところなど、地域によって
やり方は異なります。
宮古・八重山などの離島では、清明祭より、ジュウルクニチーを、盛大に行う
ところもあります。そのために親類縁者が集い、多くの人が帰省します。
離島出身でも、故郷に帰れない場合、那覇港のミーグスク(三重城)で、
ごちそうを広げ、故郷のお墓へ向けて、オトーシ(遥拝)する光景は、
この時期の風物詩です。
一般的に、首里に近い場所ほど、清明祭が重視され、首里から遠い所
(本島北部や離島など)ほど、ジュウルクニチーが、盛んなそうです。
我が家は、夫が名護出身なので、どちらかと言えば、やんばる式に、
行っているように思います。
今日は、ミージュウルクニチー(新十六日祭)を迎えた、那覇の親類があり、
お線香をあげに、行ってきました。
ミーサ(1年以内に亡くなった人)のあった家では、墓にご馳走を供え、
その後、焼香に訪れる、親族や知人を迎えるのです。
我が家も仏壇があるので、ジュウルクニチーをするために、急いで帰宅。
仏壇に新しい花を生け、お茶、果物、菓子、夕飯をお供えして、線香をつけて
手を合わせます。
我が家はミーサではないので、重箱料理はお供えせず、中身汁を
お供えしました。しかし作る時間がなかったので、オキハムの
インスタントで、勘弁してもらいました^_^;
これでも、結構おいしいです。
あの世の正月を祝うとは、祖先崇拝の地、ウチナーならではの、
行事だと思います。
清明祭、お盆、そしてこの、ジュウルクニチー、ご先祖様が身近に感じ
られる、これらの日が、私は好きです。


